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若いVCが生き残る方法:3次以上の情報だけで判断するのをやめてみる

皆さん、こんにちは「梨と葡萄は反省する」です。

もし自分がVCのキャリアを若くして歩むならば意識しておきたいことを自戒の念を込めて書く。今回の記事はそのシリーズの1本目。

人と人どうしが触れた瞬間、双方が互いを評価しあい、自然と上下関係ができあがる。関わる人と人の間に必ず電位差が生まれるのだ。まるで、極板を向かい合わせると(プラスとマイナス)を持ったコンデンサが自然とできるように。従来この電位差は人同士が直接会う中で自然と生じたものであるのに対し、昨今では特にSNSの普及が奇妙な形でこの電位差(上下関係)が生じているように思う。評価し合うという点は全く構わないのだが、評価方法について違和感を覚えるものがある。以下では私の感じた奇妙さ・違和感について考えようと思う。

すごい人をすごい人たらしめるものは何なのか?
3次以上の情報だけで「すごい」と判断できるのか?

ここで上記を読んで同じ違和感を感じた読者は読み進めなくていただかなくても大丈夫だと思う。

上では人の評価について書いたが、これは人に限ることではない。私は「いいね」の数が大きい情報にしか「いいね」できない人になってしまったのか?と自分自身に対する不安が募る。

誰かのエピソードをしてみる。納得いかない表情をされたときに、権威を示す言葉を振りかける。するとおまじないの効果覿面、表情が明るくなり、すんなり納得してくれる。3次情報って恐ろしいおまじないではないか?

n次情報の定義

梨葡萄はまた何か変なことを言い始めたと思った読者の皆様は、最後には必ず若手VCの話に繋がるので、安心してスクロールしてほしい。

では、n次情報の定義を書く。n次とは、対象 X(対象物・対象者・対象企業など)と自分の距離(ネットワーク科学でいうところのノード間の距離のイメージ)が n であるということです。具体的に、n=1, 2, 3の場合の説明を書く。

1次の情報:対象者と直接的な繋がりがある場合に、直接対象者との会話や成果物を見て取得できる情報
2次の情報:対象者とは直接的な繋がりがない場合に、対象者及び自分と直接的な繋がりがある人から取得する対象者に関する情報
3次以上の情報:対象者と直接的な関わりがない場合に、自分と直接的な繋がりのない人が対象者に関して評価している情報

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劇場のイドラ/市場のイドラ

次数が低いほど情報量が多く、ノイズのない情報が手に入る。自分自身で考えて感じて判断しやすい。次数が上がるほど、まるで伝言ゲームのように情報が曖昧になる。3次以上の情報の例として、経歴・学歴がある。これは誰かが評価して、与えた位であるため、3次情報に分類される。Twitterを開いてフォローしている人のbioを見てみていただきたい。XXX→YYY→ZZZのような人が多いのではないだろうか?(それを書くことを否定しているわけではないことを強調しておきたい。今議論しているのは受け手側の受け取り方の話である。)では、その人の何がすごいかを自分の言葉で説明できるのだろうか?誰かが判断した結果を鵜呑みにして考えることを止めてしまったら、自分という存在の思考の価値はあるのだろうか?

資本主義市場と3次情報

例えば、私が1次情報を取得して対象企業の企業価値が500億円だと判断して、自分だけがその情報を知っているとしよう。この段階では需給が成り立たないため(私の妄想である可能性が高いため)、その企業は資本主義市場には出ていない。資本主義市場に出現するのは3次以上の情報が溢れているときだ。しかし、その段階の情報だけを摂取していたら、個性のある投資ができるのだろうか?

なぜ若いVCこそなのか?

3次以上の情報で素晴らしいと評価を受けているものを素晴らしいと言うことは簡単なこと。つまり、誰にでもできてしまうことだ。誰にでもできてしまうということは私である必要がないということ。誰でもホームランが打てそうなボールのバットを若手が降らせてもらえるのか?少し比喩が過ぎたが、そんな誰の目からも分かる「すごい」起業家に若手が選ばれる確率は低いだろう。

ここで若手が生き残る方法に繋がるのだが、3次情報で判断されていない海のものとも山のものともつかぬものを評価できる人になれば若手でも活躍できるのではないだろうか?

幸い若い人たちは周りにいる人たちも若いためにラベリングされていない場合が多い。一度ラベルを見てしまうと、それに釣られて独自な考察がしにくくなってしまう。ノイズに惑わされずに自分自身の感性を研ぎ澄ますにはこの若い時期が貴重なのだ。

3次以上の情報でしか判断できない思考の癖がついてしまうのだけは、若手としての生存戦略のためにも避けたい。

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