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若いVCが生き残る方法:出る杭は出方を変える

皆さん、こんにちは「梨と葡萄は反省する」です。

若いVCが生き残る方法の2本目。今回の記事では、負のエネルギー、特に嫉妬との付き合い方について書く。というより、付き合わないように回避する方法を書く。

もはやVCに限った話ではない気もするが、あえて一般化は控えたい。私はVCのインターン業務しか経験がないので、若者・社会人はと一般化したくないのだ。過度な一般化によって読者を混乱させたくない。

若手が短期間で成長するには負のエネルギーで足を引っ張られている時間はない。過度な嫉妬や批判に巻き込まれないように振る舞うのも成功する上での戦略の一つかもしれない。

今回は三木清の人生論ノートの「嫉妬について」を引用しながら議論を展開していく。以下引用表示の文章は全て三木のものである。旧字体が多いため、所々読み仮名を振る。

嫉妬という名の悪魔

 愛と嫉妬とはあらゆる情念のうち最も術策的である。それらは他の情念に比して遙かに持續的(持続的)な性質のものであり、從つて(従って)そこに理智の術策が入つてくることができる。また逆に理智の術策によつてそれらの情念は持續性を増すのである。如何なる情念も愛と嫉妬とほど人間を苦しめない、なぜなら他の情念はそれほど持續的でないから。この苦しみの中からあらゆる術策が生れてくる。

愛と嫉妬に共通するのは対象への興味である。果てない好奇心故に持続的な性質を持ち、考え続けることが可能になる。持続性故に術策が生まれるのだ。この多忙な好奇心のために対象は術策的な攻撃に苦しめられる。嫉妬のエネルギーの高さに驚くことがあるだろう。高いエネルギーには高いエネルギーで応える他なく、嫉妬する側される側共に消耗するのだ。無駄な消耗を避けるための未然防止策が必要である。

嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に對して(対して)起る。だがその差異が絶對的(絶対的)でなく、自分も彼のやうになり得ると考へられることが必要である。全く異質的でなく、共通なものがなければならぬ。しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。嫉妬がより高いものを目差してゐるやうに見えるのは表面上のことである、それは本質的には平均的なものに向つてゐるのである。この點(点)、愛がその本性においてつねにより高いものに憧れるのと異つてゐる。

実は嫉妬はより高いものを目指しているわけではなく、対象を低める方向に力を加えるのだ。自分を対象と同じ位置まで高めようとする愛とは対照的なのがまた面白い。負の方向に働く嫉妬はやはり回避すべきというのが分かる。

嫉妬の対象

 嫉妬は性質的なものの上に働くのでなく、量的なものの上に働くのである。特殊的なもの、個性的なものは、嫉妬の對象(対象)とはならぬ。嫉妬は他を個性として認めること、自分を個性として理解することを知らない。一般的なものに關して(関して)ひとは嫉妬するのである。これに反して愛の對象となるのは一般的なものでなくて特殊的なもの、個性的なものである。

嫉妬は性質的なものには働かず、量的なものに働く。嫉妬は対象の内面性などは眼中にないのだ。

成功と嫉妬の相性の良さ

成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するやうになつて以來、人間は眞(真)の幸福が何であるかを理解し得なくなつた。自分の不幸を不成功として考へてゐる人間こそ、まことに憐れむべきである。他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見てゐる場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考へられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴ひ易い

成功は量的なものである場合が多いために嫉妬の対象になりやすい。量的なものは非常に分かりやすいのだ。人の性質を捉えるのは大変難しく面倒だ。質→量に写像できる関数が3次情報のnoteで話した学歴や経歴である。また、TwitterやInstagramの「いいね」の数もそうだ。「文章」をTwitter, Inc. が提供している「いいね」機能という関数で写像し、いいねの数が写像後の圧縮された情報だ。いいねの数はTwitter社の「いいね」という定量的な評価軸であり、1軸であるがゆえに分かりやすい。しかし、注意しなければならないのは、質的な要素を量的なものに圧縮しているために情報量は落ち、個性が消える

嫉妬の特徴を逆手に取る

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成功や結果は量的なものであり、他人の評価軸である場合が多い。しかしながら、成功するまで、結果が現れるまでにはそこに至るまでの過程(プロセス)がある。過程は質的なものになる可能性が高い。過程に個性が出るのだ。過程という質的物質が結果という量的物質に変換され、インターネットの海に流れ着く。しかし、結果というのは本来過程に比べたら本来微々たるものでしかないはずである。実は、結果だけを見て褒め讃えるというのは本来浅はかな称賛でないか?なぜならば、結果は当人にとってプロセスと比較すると小さすぎるから。

結果のみをアピールすると、必ず嫉妬の渦に巻き込まれる。ならば結果を一切言わずにプロセスの部分だけを垂れ流していたら、応援者がつくのではないか?という仮説が私にはある。意図的にプロセスのみを見せることで、個性という私の質的な特徴のみを表現する。この個性を好きと言ってくれる人が愛を持って応援者となってくれるんじゃないだろうか?

なぜ若手か?

若手には成功体験もこれといった結果も信頼も何もないため、過程の部分で評価してもらう他ない。非線形な成長のためには自分一人の努力では不十分なのだ。周りの人や環境というアセットを存分に駆使してレバレッジをかけるしかない。そのため、応援者が一人でも多いほど成長は加速する。自分の質的な特徴をプロセスに乗せて、周りを巻き込み勢いをつける。

さて、この一週間は内省的な文章が多かったが、次はANRI noteでまともな文章を書いて皆さんにお会いしたい。

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