愛と受容と許すこと

わたしの考え、わたしの答え。
わたしなりの、密かな思い。


誰にでも考える権利はあって、
誰でも「自分だけの答え」を持つことを許されていて、誰だって表現する自由がある。

たくさんの人がもつアイデアの、
わたしのはそのうちのただひとつにすぎない。

(しかもそのうちここで出したひとつの「答え」は、変容していく可能性をはらんでいる)
という前提を踏まえて。

愛ってなに?
許すってどうやるの?
受容ってどこまで必要?

いっぱいいっぱい悩んできた。
いっぱいいっぱいやってきた。

愛したい、愛されたい。
愛せない、愛されない。

許したい、許せない。
許されたい、許されない。

受容したい、でもできない。
受容されたい、でもされない。

いっぱい悩んで、苦しんで、考え抜いて、のたうち回ってきた。

できるできないで
人や自分を責めて。

責めたことでまた落ち込んで傷ついて。

わたしはどれだけ未熟なんだ、って。

だけど、未熟なことも認めたくなくて、
見なきゃいけないことを見て見ぬふりしていることにも気づいていて、
何よりも、「自分と生きる」のが苦しかった。

『ザ・人間初心者』ってかーんじ🔰(´・ω・`)

人間て、こんなに難しいものかと。
こんなに課題を抱えているのかと。

ただ楽しめばいいのかと思ったら、
羨み妬む人が現れる。
水を差す人も、足を引っ張る人も。

幸せだけを望んでいたら、
慎まなくちゃいけない場面にも見舞われる。

人の顔色(しかも嫌な奴の)ばかり伺っていたら、おちおち楽しむことも、幸せになることもできやしない。

そう、「嫌な奴」のこと考えてたら、
自分の楽しみや幸せからは遠のく。

わたしは自分の中に
「自分のことを嫌いなわたし」がいたから、
いつまで経っても幸せになれなかった。

夢を叶えることも、楽しむことだって、
後回し、後回し。(周りからはどう見えていたかわからないけれど)

だいぶずっと遠回りしてきた人生だった。
(「人生」を語るにはまだまだ若くて青いけど。(自分比)(?))


もっと自分が好きだったら、もっと自分を信じられていたら、もっと自分を愛せていたら、もっと自分を許せていたら…

人生は大きく大きく違っていたと思う。

だけどわたしにはきっと、「必要な遠回り」だったんだろうな、とも。

わたしは上手く愛せなかったよ。
わたしは上手く許せなかった。
わたしは受容も下手くそだった。

人にはあんまり興味がなかったし、
心も狭くて不器用だったし、
なにより自分を嫌っていたから、
人を受け入れる余裕なんて、
あるはずがなかった。


だけど、自分を嫌いなまま、
人を愛そう、
人を許そう、
人を受け入れようとしてきた。

それで変な方向へ、
無理して、突っ走って
心が折れきってしまったんだと思う。

いっぱい心に無理をさせてきた。
いっぱい自分を抑えてきた。

何度も何度もこぼしてきたけど、

何度も何度も何度も何度も
しにたいしにたいしにたいって思った。考えた。実行にうつそうとしたこともあった。

それも含め、
自分のことが、恥ずかしくって、
情けなくって。


だけど痛くて苦しくて、
「どうして人生こんな思いばかり?」って。

「わたしはこんな人生を生きたかったの?」
「こんなことのために生まれたの?」って。

本当はどうしたかった?
どうなりたかった?
どんな風に生きたかった?

わたしも幸せになりたかったんじゃない?
本当は自分を好きになりたかったんじゃない?

大好きな椎名林檎さんの幸福論の歌詞にあるように「愛し愛され」たかったんじゃない?

人生を謳歌してみたかったんじゃない?

ひとつでもいいから、なにか、夢を叶えてみたかったんじゃない?

と。

折れて折れて折れまくって、
傷んだ身体で、声のない悲鳴を上げる身体で、泣きながら考えた。

「わたしこのままじゃ嫌だ」って。

そうしてようやく、生き方を、考え方を変えなくちゃとハッキリと思った。自覚した。

自分を大事にしなくちゃ。
愛さなくちゃ。
許さなくちゃ。
認めて、受容しなくちゃ。

この、ダメなまんまのわたしを。
未熟でしょうもないわたしを。
ただの一般人で、
…いや、ニートで、陰キャで、引きこもりで、
人見知りで、自分の世界に閉じこもるばっかで、何も優れたところのない、残念なわたしを。

地味なくせに見栄っ張りで、
ダサいことが大嫌いで、とっても狭量なわたしを。

本当は優しくなんかない、
冷たいところもたくさんある、
残酷な部分だって、乱暴な部分だって持ち合わせているし、暗くてジメジメ、ねとねとした、すんごく不快で嫌な部分もあるわたしを。

そう。

明るいだけじゃない。
気持ちのいい、健やかな部分だけじゃない。
いいとこばっかでできていない。
わたしって、ダサくて、みっともなくて、恥ずかしいんだ。

まだまだ未熟で、プライドも高くて、
嫌な奴なんだ。😂

そう、まじで、笑っちゃうくらいに!🤣←


そんなことを

何度も何度も何度も何度も
認めよう、受け入れよう、諦めて、降参しようって、やってきた、ここ数年?でした。

(30歳になる頃に心療内科に通院をはじめ、その頃は希死念慮が強すぎて「重い抑うつ状態」との診断、そこから約6年が経過します。)

いろいろこじらせるきっかけになったことはあります。

自分を嫌いになったことのきっかけも、自分でよおくわかってる。(つもり)


人間の感情の醜さに、複雑さに、矛盾に、
驚いて、傷ついて、呆れ果てて、
悲しくて、酷く、絶望してしまったんです。

きれいなだけならよかった。
美しいだけであって欲しかった。
いい面だけを見たかった。

でも、そうじゃない。

一筋縄じゃ全然いかない。
1本筋の通った、ストレートな気持ちだけじゃない。
人間ってとても愚かで、矛盾していて、
時にみすぼらしくて、哀しくて、虚しいんだ。

人を見ても、自分を見てもそう。

そんな自分と他人とを、
ゆっくりゆっくり受け入れて、理解していくことが、
「それでもいいよ、大丈夫」って笑えることが、共に生きられることが、
愛であり受容であり許しなのかなって思いました。

ほんで、そう書きながら、全然受け入れられないものもある😂

全く理解できないものも、多分まだ、知らないものだってたくさんある。自分が、わたしが、どこまで受容できるかって、とても未知数。

ほんで、
全てを受け入れられなくてもいい。
全てを許せなくてもいい。
全てを愛せなくてもいい。

今、すごく、そう思います。

完璧じゃなくていいから。
完成されてなくていいから。
完全無欠でなくていいから。

そのままの「自分」をまず許し、受け入れる。

わたしはダメだよ、
ダメなとこもあるよ、って。

パズルのピースのひとつみたいに、
変な形してるの。

でもだからこそ、その形がちゃんと明らかになれば、パチッとハマる場所も見つかるのかなって。

わたしという「I(愛)」のかたち。

何を受け入れ
何を愛し、
何を許して受容するのか、

それさえ自由だし、
それこそが「わたしの答え」。

だから、誰かの規範にのっとる必要なんかない。

誰かの真似して受け入れるもの、
受け入れないものを決めなくてもいい。

愛せるもの、愛せないものは人と違ったっていい。

許すもの、許せないものも、人と違っていい。
自分だけの基準でいい。

そうやって上手く回っていくものだと思うから。

わたしはわたしが愛すべきものを愛し、
わたしが許せるものを許し、
受容したいものを受容する。

そんな風に生きていきたいなと思ったのでした。

わたし自身にしか
伝えられない愛、

わたしにしかわからない許容範囲、

わたしの器。包容力。

それもこの世の資源のひとつで、
限りのあるもの。
代わりのないもの。

だからこそ自分を愛して、大切にして、
無下にしない。

みだりに、容易く、人に明け渡さない、
譲らない。

そういう姿勢も大事かと思ったんです。


。。。。。ほんとつれづれなるままに書いちゃって、上手く書けている気が全くしないし、読む人からすると読みにくいことこの上ないだろうなって思うんだけど、ごめんなさい。😂

わたしの言いたいこと、表現したいことが伝わる人が、一人でもいたらいいなと思います。

夜中に書くもんじゃないね🥺

多分同じようなテーマを、何度も何度も書く気がします。

どんどんブラッシュアップできたらいいな。

わかりやすく、伝わりやすく書けたらいいな。


ていうかさ、愛すること、許すこと、受容することも、決して「簡単」ではないんだよね。
何を対象にするかにもよるだろうけど。

そして、その深度や確度は、人生を踏みしめるごとに、深く、確かになっていくものなのかなと思います。

生きれば生きるほど、上達していくものかなって。きっとそれを意識していれば。

だから今は、下手くそでも構わない。

下手くそだから悩み苦しむんだけど、
それがわかってるから、自覚しているから、
ちゃんと成長できる。

わたしたちには未来しかないから、
それらは余地だから。
希望しかないんだ。

そう思っていたいです。


うん、前向きな感じで終われそうなので、今日はこのくらいにしといてやろうと思います。←

おやすみなさい。🙃


りずむ



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