誰もが陥る「私」という人生ゲーム21
21の下書きがそのままになっていたので、後先が逆で21です。
といっても、順番にストーリー性はまったくないのでどこから見ても同じです(笑)
起きてしまっている
今回の21と22が反対になったことも、「私」の意図はなく起きてしまっただけ。
ここに善悪をつけようがない。そもそもがそれが起きただけだから。
例えば「失敗した!」と思うとしても、それは単なる思考でそれが正しいというわけでもない。ことは明らか。
この記事が、21だろうが22であろうが0だろうが、なんでも良くて。
「タイトル」=意図してラベリングしただけのもの。
そんなことに対して、間違いだとか失敗だとかなんの意味も持たない。
私たちが毎瞬毎瞬張り巡らせている「思考」って、結局その程度のもの。そういうこと。
けれど、考えたら考えたでそれも起きただけなわけだけど。
どうしようもなく、起こることは止められない。
「考え」というリミッターを外せるか
といっても、外せる誰かもいないから、それすらも無意味だけど。
それを言ってしまうと本当に元も子もないから、とりあえずそれは脇に置いたとしての話。
人はそれぞれ価値観や考えがあるから、様々なことに善悪をつけてしまうし、制限を設けてしまう。
ただ、たぶん赤ちゃんにはそれはない。
価値観や考えがないことを悪いどころか、ただ純粋で無垢な存在。
赤ちゃんを「悪い」なんて位置付けようがない。
リミッターを外すというのは結局のところ、思考を無くすということ。
思考を無くすなんて、普通に生きていてできることではない。
外す必要がないもの。
ただ、思考にラベリングをした時に、それに良し悪しがたいてい起こる。
何であっても良くも悪くもない。
そこに本来は思考でしかないものに、良し悪しをつけようがない。
空気という、それそのものの存在を意識しなくても、ただ在ることを既に知っているものに対して人は追い求めたりしない。
空気があるかどうかを考えなくても、そこにあることを知っているから。
勝手にリミッターは外れてる。
眠いときも、おなかがすいた時も、勝手に起きる。
眠くならないようにする、おなかがすかないようにする、なんてできない。
既に自然に「起こそう」「何かをしよう」と意図や考えなくても、リミッターが外れているにもかかわらず、そこに善悪をつけてどうにかしようとしてしまう。
それすらも自然に起きているから、良し悪しではない。
いつもながら無限ループ。
形も枠もないから、終わらせることはできない。
そもそも始まってもいない。
視座がどこなのかで、見るものが変わる
相性が良いとか悪いとか、波長が合うとか合わないとか。
これも自然に起こる。
つい自分に合うものを良いとしがちだけれど、それは違いがあるだけで、何が良いとか悪いとかはない。
ノンデュアリティは、枠が何もない、すべてが受容されている、究極の愛がそこにあるだけ だけれど、
それぞれの人の思考は一定ではないから、今どこに自分のエネルギーが漂っているかで、思考が変わってくる。
思考はストーリーだけれど。
例えば、私はインド占星術を鑑定する側でもあり、真にはノンデュアリティを伝えようとしているわけだけれど、ノンデュアリティから見ると、占星術はストーリーでしかない。
星の配置は人の人生を本当に見事に現しているのだけれど、自分がそう見ているからそう見えるだけ。とも言える。
必要としている人に、その視点から提供するわけだけれど、その段階でノンデュアリティを伝えてもそこには意味がなくなる。
もとを辿ればすべてに意味がないから。
医療でも西洋医学と東洋医学では採用する薬が違うし、他には自然治癒を採用する人もいる。
精神面のケアには精神科、心療内科、セラピー、占い、宗教・・。
それぞれがそれを信じることを採用しているにすぎない。
それぞれのストーリーに合うものが選択されているだけ。
そして、自我「私」がいれば、どのストーリーにもそのストーリーに合う良し悪しが用意されてしまう。
ということが起きる。
そこに解決の方法もどこにもない。
と、丸ごと含有しているのがノンデュアリティ
何か起こす、変えられる人はどこにもいない。
そんな「私」なんてどこを探してもいない。
解決方法がない以前に問題とする何かがないし。