ぬくもりの彼方に①
「でね、一郎がまた、電話をよこしてきて」
トメ子さんの話しは止まらない。その話しは、もう三度目だ。
「トメ子さん、着きましたよ」
「あぁ、もう着いた。はいはい、ありがとうねぇ」
トメ子さんは、今年で85歳になる。足腰が弱っているが、今でも毎週自分の足で診療所に通っている。僕は、迎えにきた看護士の蓮美さんに合図を送るとバスを発車させた。
小型バスの乗客は、誰もいない。次は10分程走った先の田中さん宅前だ。風邪をこじらせている田中さんの姿も、しばらく見ていない。きっと今日もバス停にはいないだろう。
「戻りました」
「はい、お疲れ」
棚田町に勤めるようになって、もうすぐ3年が経つ。カレンダーを見つめている僕に、町民課の橋立さんが声をかけてきた。
「気持ちは変わらんのかね」
「えぇ」
「寂しくなるなぁ」
「成光君も悩んだ末に決めたことだけぇ、もう」
町おこし課の上司、中田さんが割って入る。
「そうは言ってもなぁ。俺らみたいなのばっかりのところに成光君が来てくれて、みんなもパッと元気になったしさぁ」
「まぁたそんなことを。ほら、仕事にもどれ」
橋立さんは、僕の肩をポンっと叩くと、中田さんに追い払われるようにして戻っていった。
任期は3年、僕は25歳の時にこの町にきた。過疎化が進む町に、移住者を増やす町おこしプロジェクトの第1号が僕だ。空き家だった一軒家を無償で借り、役場の一角で働く。今は、路線バスの運転と見守り、観光業のPR活動の手伝いをしている。何も分からない僕を、この町が息子のように育ててくれた。
「バスは、廃止になるのですか」
「あぁ」
中田さんは、気まずそうに下を向く。
「すみません」
「いや、成光くんのせいじゃない。元々、そうなる予定だったんだよ。これからも旅館の夢花さんところも、タクシーの畑さんとこも協力してくれるし、なーんも心配することはないけぇ。なーんも」
中田さんの口癖は、僕をいつも励ましてくれた。
「ここですか?」
大学を卒業して就職した広告代理店を、2年ももたずに辞めた僕は、この町に逃げるようにやってきた。
「庭付き一戸建て、悪くないだろう」
無償で提供された空き家は、築40年以上で古くはあるが、部屋は4部屋もあり、庭はキャッチボールが出きるくらいのスペースがあった。
中田さんが、雨戸を力ずくでこじ開ける。すると、何やら大きな虫が外から入り込んできた。
「うわぁ!」
僕は、驚き、尻餅をついた。
「なぁに、バッタさ。都会から来たけぇ、珍しいかね」
中田さんは、バッタを捕まえると、僕の顔に見せつけ、すぐに外に逃がしてやった。
「大丈夫。なーんも心配ないけぇ。引っ越しも掃除もみんなでやるけぇ」
中田さんは、驚いて立ち上がれない僕の顔を見て、ケラケラと笑っていた。中田さんの言葉通り、その日から、3日かけて町の人が入れ替わり立ち替わり僕の家を訪れた。
「これでクーラーが使えるけぇ」
「水漏れは修理しといたけぇ」
どの人たちも、自己紹介する前から、みんな僕の名前を知っているようだった。
「野菜いるけぇ」
トメ子さんは、一番近い僕のお隣さんになった。
「ありがとうございます」
「そんな細い体しとったら、野猿にやられるべ」
「猿が出るんですか?」
「こーんなおっきいの」
「えぇ…」
トメ子さんは、不安そうな僕を、わっと驚かせて喜んでいた。
「どうにか、成光くんに残ってもらえんだろうか」
喫煙所を通りかかると中田さんと、橋立さんがまた、話しをしていた。
「もう決まったことだけぇ」
「でも、路線バスもそうだし、色んなことで困るべ。そもそも、町の人口を増やすためにこの事業はじめて、なのに」
「蓮美ちゃんらもおるやろう」
「わからん。蓮美ちゃんだって、任期が終わる来年には出ていくかもしれん」
看護士の蓮美さんも、町おこしの一環で移住してきた一人だ。シングルマザーの蓮美さんのことを、色々と噂する人もいたが、2ヶ月もすると診療所の人気者になっていた。
「せっかくうまくいきそうだってのによ。やっぱりよそ者は」
「こら、そんなこと言うもんじゃねぇ」
僕が任期満了でこの町を去ることを決めてから、どこか皆、疑心暗鬼に陥っているようだった。
「大変だ!田中のじいさん、診療所から市の病院に運ばれたって」
昼過ぎ、慌ててやってきた橋立さんからそう聞かされた僕は、急いで中田さんと診療所に向かうことにした。
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