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羽のない蝶

「先頭を走ってると思っていても、週回遅れってこともある」
 桃は明らかにムッとした顔をした。合図を受けると、俺のことなど無視するように前へ進んだ。ランウェイを歩く桃は、大きな歓声に包まれていく。高校生の読者モデルを少しかじった程度の桃は、悪い大人たちのおもちゃにされ、使い捨てにされる末路をどこかで覚悟しているのだろう。

「いやぁ、充さんところに頼んでよかったよ。こんな時代でしょ、人が集まる保証なんてなくてさぁ。うちも生き残りに必死なんだよ」
 桃のマネージャーの荻山とは、よく仕事をする仲だ。こんな風に言うときは、あんまり満足していない。それくらい、荻山のことはよくわかっていた。
「桃、最近、人気が出始めてきてさ。これからどんどん稼いでもらわないと。…で、さっき、何話してた?」
 荻山は、マネージャーから男の顔に変わった。
「いえ、高いヒールだったので、足元を気をつけるように、ただそれだけです」
「へぇ。まぁいいや、じゃ、また」
 荻山は、近づくなよ、と牽制するように、俺の肩を2回、ポンポンと叩いた。
「峯岸さん、こちらに」
 スタッフに呼ばれ、荻山に頭を下げた。
「本当、クソみてぇなやつだな」
 去り際に、荻山の陰口が聞こえた。
「大丈夫ですか」
 迎えに来たスタッフは、荻山を睨みつけて言った。
「あぁ、大丈夫だ。構うことはない」
 足の引っ張り合いは、どこの業界にだってある。どちらかというと、そんな世界に慣れてしまった自分に反吐が出る、そんな気持ちだった。

 打ち合わせを終えると、屋上へ向かった。ドアを開けると生暖かい風が吹いた。
「お疲れ。あ、その顔、なんか嫌なことでもあった?」
 俺は、苦笑いした。美咲が、ゆっくりと月を指差している。
「今日は、満月か」
 空には、まん丸とした月が見えた。ランウェイとは違うその光は、心の中をスッと清めていくようだった。
 視線をゆっくり落とす。と、そこにはもう、美咲の姿はない。俺は、呆れたように首を横に振った。

「私は、羽のない蝶よ」
 そう美咲が呟いたのは、ここから飛び降りる1週間前のことだ。美咲は、まだ、目を覚さない。今も病院のベッドの上だ。僕らは、付き合っていたわけでもないし、愛し合っていたわけでもない。ただ、どこかで繋がっているような、そんな気がしていた。
 桃は、若い時の美咲にどこか似ている。勝ち気な目つきをしなくなった美咲は、この世界にきっと呑まれてしまったのかもしれない。

「俺も、羽のない蝶なのか」
 僕の心の中の美咲は、何も言わず、微笑むだけだ。
「それとも、羽をもぎ取る方なのかもしれないな」
 火をつけたタバコの煙は、月に向かって伸びていく。月の光は、まるでスポットライトのように、照らしている。俺はまた、タバコを吹かしてみせた。

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