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捨てられないもの

 泥だらけになりながら、部屋の奥まで進むと、ぬかるんだ足元に、僕は、思わず尻餅をつきそうになった。

「圭吾!大丈夫か」

 その声に腰を低く落としたまま、体勢を整える。智のおかげで、なんとか尻餅を回避できた。

「気を付けろよ」

「あぁ、悪い」

 先週、この町に記録的な大雨が降った。川が氾濫しそうだという知らせを聞いた僕は、なんとか命からがら逃げ出した。今は高台にある智の家に身を寄せている。
 人が入れるくらいまで水が引いたのは、大雨から丸2日も経ってからだ。アパートを見に行くかと、智が提案してくれなかったら、きっと僕はこの現実に向き合えなかっただろう。

「こりゃひどいな」
 
 アパートは、二階の天井まで水に浸かってしまっていた。

「時間がない。夕方からは、また雨になる。それまでに必要なものを取り出すぞ」

 智は、僕の肩を叩くと、明日は筋肉痛だと笑っていた。気を落とさないようにと、明るくする智のおかげで、僕も気丈に振る舞うことができた。

「お前の家が高台でよかったよ。じゃなきゃ今頃、野宿生活だ」

 人付き合いが苦手なせいか、この町に越してから心を許せる相手は智くらいしかいない。同い年の智は、僕とは正反対で、気取らない性格をしていた。人との関わりを避けてきた僕にとって、人間らしい智は、新しい感覚を教えてくれる存在だった。

「しかし、本当にひどいな」

 物はどれも泥だらけだ。男の一人暮らしだ。物はそんなに多くはないが、日常があっという間に壊された喪失感は否めない。呆然とする僕に変わって、智は一人、泥だらけになりながら物をかき分けてくれていた。

「お前が探してるの、これじゃないか」

 智が、手を伸ばし、棚の奥から引っ張り出したのは、小さな缶カンだ。蓋をあけると、缶のお陰か、中身はそこまで汚れてはいないようだった。通帳に印鑑、そして、メガネが1つ、僕はこのためだけにここに来た。

「それ、お前の父さんのか?」

「あぁ」

 僕は、泥を払いながら、そのメガネを握りしめた。このメガネは、父の形見のようなものだ。父子家庭で育った僕は、3年前、父を病気で亡くした。遺品は本家に住む父方の妹に殆ど預け、すぐに納骨もすませた。父は、若い頃から家族と折り合いが悪く、僕が叔母にあったのも、葬儀の時くらいだった。裕福な実家を捨てた父は、幸せだったのか、本家の墓に眠る父に手を合わせた僕は、わからないでいた。
 
 本来なら、長男である息子の僕が本家を継ぐべきなのだろう。しかし、叔母には2人の息子もいて、疎遠になっていた僕が入る隙間はあるわけもなく、よそ者である方が都合がいいように思えた。後のことは任せて、と言った叔母から、唯一、譲り受けることができたのがこのメガネだった。
 大切にしまっていたわけでもない。ただ、捨てることは出来ないでいた。通帳も、父が僕のために貯めたものだ。大金が入っているわけではないが、どうしても手を付けられないでいた。

 雨が降ったあの日、僕は慌てていた。棚の奥にしまった缶カンの存在を忘れていたわけではなかったが、僕はそのままここを後にした。やはりと、引き返そうとした時には、すでに川の氾濫が始まっていた。

「父は多くを語らない人でね。僕が家を出た時も、好きにしろって、ただそれだけだった。貧乏な二人暮らしから逃げ出したかった。僕は、父との暮らしから逃げたんだ」

 智は黙って聞いていた。親不孝な息子だと、天国の父はきっと怒っているだろう。

「それでも、捨てられなかったんだろう?」

「どうかな」

「俺が止めても戻ろうとしたじゃないか。あんなに必死に。見つかってよかったよ」

 大雨の中、僕は、この家に戻ろうとした。馬鹿なことはよせ、と智に力づくで止められなかったら、今頃、僕はここにはいないだろう。

「大切にしろよ。それも、お前自身も」

 智は、涙を流す僕に、5分後に迎えにくるからと部屋を出てくれた。
 
 捨てられないものがあるとすれば、きっと、あの頃の父との思い出だけなのかもしれない。

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