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影法師
この手で終わらせる。それが私の使命である。私には、もう、そうするしか術がないのだ。人様の迷惑になる前に、この手で終わらせなければならない。私は、そう決意した。
息子の様子がおかしい。妻がそう嘆き始めたのは、息子が17歳になった頃だ。パートを辞め、ふさぎ込んでいく妻の姿を、私は仕事のせいにして目を背けてきた。退職した日、妻は私に全てをぶつけるように言った。
「もう、わからないの…」
8月の暑い夏、待望の長男の誕生に、私は、一人で仏壇に手を合わせて涙ぐんだ。父もきっと孫の顔を見たかっただろう。45歳でようやく妻と出会って結婚した私にとって、息子の誕生は神さまからのサプライズのようなものだった。
何不自由なく、育ててきたつもりだ。一人っ子で、多少甘やかしたところはあったかもしれない。ただ、健やかに真っ直ぐに育ってほしい。それだけが望みだった。健真と名付けた名前には、私と妻の望みをこめた。
ハトが毎日殺されている。毎朝、仕事前に通る公園は、そんな噂で持ちきりだった。何やら警察も動いているらしい。私は、ハンカチで冷や汗を抑え、その場をやり過ごすのに必死だった。健真に違いない。確信はない。しかし、心のどこかでナイフを持ってうろつく息子の姿が目に浮かんだ。どこで間違ったのか、私は、バスに揺られながら、このままどこか遠くに消えてしまえるのならば、どんなに楽であろうかと考えていた。
「あっ、降ります」
バスが停車したのにも気付かず、閉まりかけたドアへと急いだ。妻を置いていくわけにはいかない。 私より8つも年の離れた妻は、毎日のように睡眠薬を飲んでいる。息子が部屋から出てこない方が、家族の安全は守られていた。最近、夜中になると健真は外に出かけている。私も妻も、寝たふりをして玄関が閉まる音をずっと待っている。このままいっそのこと帰ってこなければいいと思う時もあった。
妻の叫び声が聞こえる。暴れている健真は、人間なんかじゃない。年老いた私は、もう健真を止めることはできないでいた。椅子を抱えた健真の顔は、悪魔だ。怯えて泣き叫ぶ妻も、血まみれになった私の姿も、健真にはもう、見えていない。
和室の仏壇で微笑む父がいる。この悲惨な現実を、父が見なくてすんだことは唯一の救いなのかもしれない。私は、仏のように笑う写真の父を見つめた。
「健真!!うぉー」
これでいいのだ。もう終わりにしよう。私の腕には見たこともない血管が浮き出ていた。私にも、こんな力が残っていたのかと、どこかみなぎるものがあった。父親の威厳を示したかった。これでいいのだ。
細くてゴツゴツした息子の首筋は、波打つようにうねり、ぐっと力が入った。と、同時にふっと動かなくなった。
月明かりで照らされた影が壁際に映る。これでいい。これが私の使命なのだ。私は、小刻みに揺れる影法師を見つめた。汚れてしまった手の平には、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていった。
悪魔は、私だ。
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