『夜の森』デューナ・バーンズ 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
デューナ・バーンズ『夜の森』です。デカダン派女流作家として小説・戯曲などで活躍した作家です。T・S・エリオットが絶賛し、この作品の「序文」を書いています。
1920年代のパリ。各国の「芸術家」が集結し、モダニズムをはじめとした芸術が多方面へ広がっていった時代、バーンズは雑誌記者としてアメリカより渡仏してきます。彼女の仕事は作家・芸術家(主にアメリカ人)へのインタビューであり、それを記事に起こすことでした。映画『ミッドナイト・イン・パリ』にも登場します。彼女が起こす記事の文学性は早々に認められ、ついには雑誌へ小説を掲載するに至ります。
彼女の文章には「頽廃」と「エロス」が含まれます。この特徴は彼女の生い立ち、或いは父親の存在が影響して表れています。父であるウォルド・バーンズは、自称作曲家ですが真っ当に活動することはなく、方々に無心しその日をなんとか暮らしているような人物でした。その言動は醜く、娘である彼女を他人へ売りつけるほどの悪辣ぶりでした。
彼女は満足な教育を受けられず、家計を支え、自身の「本来華やかな価値観が育まれる時期」を犠牲にします。そして彼女は芸術家が属するボヘミアン共同体に参加し、彼女自身もボヘミアニズムに浸り、憧れるようになります。ここから彼女の人生は、前述の記者時代へ向かい、芸術および文学の方面へ漠然と進んでいきます。
バーンズの悲劇的な生い立ちは、「頽廃的な価値観」と「歪められた性愛」を生み、彼女の文体に組み込まれます。本書『夜の森』では、これらを存分に感じることができます。
エリオットは序文でこのように語っています。
バーンズ自身の持つ「頽廃的な価値観」は自身の経験した特別な悲惨さから来るものではなく、普遍的に、つまりは誰しもが持っている「心の頽廃性」として描き、その性質が「性愛」に影響し、そこから生まれる悲惨さは読み手の「心の中の不安」を思い起こさせます。
夜になると、神経が高ぶり、本能や欲望が強くなり、不安が募る。昼に存在していた自制心や社交性が薄くなる。確かに夜は集中力が増し、大胆な行動や決断ができることが多くなります。しかしバーンズはこういった自律神経の作用を「頽廃的な価値観」で鬱屈な方向へ導き、恐れや不安を煽るような普遍性を説いていきます。
訳者の野島秀勝さんの言葉です。
この〈夜〉に現れる、もしくは生まれる欲望や不安や神経の緊張は「深層意識」より生まれていると考えられます。無意識な脳内の逡巡が突如、「過去のトラウマ」を捉えて現在に同様の不安を一瞬起こすように、〈夜〉になると脳内で「頽廃性」が活性化していきます。この作品でも繰り返し「頽廃的な表現」が出てきます。
自分の人生さえも俯瞰的に捉え、「人生は落ちていくもの」という概念を受け入れ、救いを求めようとする行為さえ否定するような彼女の文章は、「美しさにまで昇華された悲しさ」に感じられます。
バーンズの文章は非常に詩的で美しく、しかし優しくない意志の強さが宿っている不思議な文体です。「狂騒の時代」であるパリを背景に描かれたこの作品は、彼女の筆致で耽美的で頽廃的に書かれています。ぜひ、読んでみてください。
では。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?