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『白痴』フョードル・ドストエフスキー 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

高貴な人間は道化の姿をしているーーロシア社会の混沌の中にあらわれた純粋で無垢な主人公ムイシュキン公爵は、すべての人々に愛される。悲劇の翳を宿した美女ナスターシャにも、清純なアグラーヤにも、粗暴な野心家ラゴージンにも。しかし……
紹介文より

フョードル・ドストエフスキー『白痴』です。この作品は「真に美しい肯定的な人間を描く」ことを動機に書かれたものです。ドストエフスキーの作品中、もっとも小説的で、物語的で読みやすいとされています。実際、以前感想を書いた『罪と罰』より、思想の論調はおとなしく、登場人物も詳細に心を描かれていたように感じました。
また、この『白痴』は上流社会を舞台に描かれており、『罪と罰』の時に見られた苦しいほどの貧困描写は少なく、背景は比較的、煌びやかでした。

「上流社会の人がそんな文学などに熱中するなんて。」
本文より

このような台詞が挿まれるような価値観であったと皮肉っている、あるいは事実であった事が、当時のロシアにおける音楽や美術に比べ、文学に華やかさが少なかったことを物語っているように伝わります。
この作品もやはり、「愛」「家族」「友」「神」「信仰」「誇り」「思想」「主義」などが前面に出ており、人々の心の芯に何があったのかを綴ってくれています。
特に心に響いたのは「十字架の義兄弟」「二重思念」というテーマです。

「十字架の義兄弟」

公爵は自分の錫の十字架、ラゴージンはその黄金の十字架をはずして、交換した。
本文より

「二重思念」

これはその二つの事実が偶然いっしょになったのです、二つの考えが一時に浮かんだのです。
本文より

結末から振り返ると、このラゴージンの心は対極にある二つ(善悪とはいえない)を共に正しいと思ってしまい、また強い心により両方を正しくあろうとするがあまり、自己内で混濁した心を造り、善悪ない交ぜに人格まで変化していったのではないか。そこに美しい君が清らかな心で肯定する、つまり自分で肯定しきれていない心をやさしく受け止める、それがラゴージン自身を救ってくれる唯一の人だったのでは。そのように感じました。
四人の恋愛模様が主ではありますが、私はこの二人の関係性が運命的で無二な引き合わせであったと思います。

この作品で個人的に大きな感銘を受けた理論があります。

彼らはすべての人々と同じく、二種類に分類される。一つは浅薄で、も一つはそれより『ずっと賢い』。
本文より

・自分こそ非凡な独創的人間である
・名乗りを挙げさえすれば、自分自身の『信念』を得たものと信じる
・人類共通の善良な心持ちをほんの僅か感じるだけで、人類発達の先頭に立っている
・本の一ページをちょっとのぞいて見るかすれば『自分自身の思想だ』と信じる
これらが浅薄なひとの特徴。

岩波文庫下巻の265~269ページに書かれた理論が、自分が若い頃に本当に理解することができたなら、無駄な労はなかったのだろうと痛感しました。

最後にヒロインであるナスターシャの心に関して、少しだけ所感を述べておきます。

心から愛した人に、憐憫による心で支えられるというのは幸せと言えるでしょうか。自分自身を汚れた(汚された)存在と認めている中で、自分が相手を愛することで汚してしまうと考えてしまう。憧れている人に一緒に居るほどプライドを傷つけられるとするならどうでしょうか。人間の心のとてもナイーブな点を深く深く描かれており、だからこその彼女の奇妙な行動が読後に切なく印象深く残っているのだと思います。

作品名の『白痴』は、「世間知らず」という意味も含んでいるようです。このムイシュキン公爵のように「白痴でいることができる」ならば、今の世こそ幸せに感じる場面が多々あるように感じます。大変面白い作品ですので、未読の方はぜひ読んでみてください。
では。


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