『掃除婦のための手引き書』ルシア・ベルリン 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
知る人ぞ知る優れた短篇作家、アメリカで守られ続ける文学の秘密、など幾つもの肩書きを持つルシア・ベルリン(1936-2004)ですが、世界的な評価を受けるに至ったのは、つい最近の2015年になってからでした。
父の仕事に合わせて転々とした住居、生まれつきの脊椎側彎症(背骨が横にS時に湾曲)、内向的な性格による嫉みといじめの被害、貧困層と富裕層の双方を経験、祖父からの性的虐待、掃除婦や救急救命看護師や電話交換手といった多くの職場経験、母と叔父はアルコール中毒者、本人もアルコール中毒者、デトックス成功後に刑務所で囚人相手の教師、三回の結婚と四人の息子、誕生日に愛する本を抱きながらの永眠。何回分の人生を過ごせば味わうことになるのか想像もつかないネガティブな印象の強い数多くの経験は、彼女の精神に大きく影響を与えて独特の感受性を構築します。1960年代から執筆を始めていた彼女は、七十六篇の作品を残しました。
実体験を元にした作品群は、突飛に浮かび紡がれる奇妙な語彙と、熱量が急変する緩急をもって書かれています。出来上がる文体は「オートフィクション」(auto-fiction)で描かれ、自伝を誇張して変容させた小説となっています。特殊な環境下において、特異な人生を歩んだ数多くの経験は、少しずつ局地的に切り取られて、各短篇の核として存在し、多面的で多様的な作品群を形成しています。また、アルコール中毒時に体験した幻覚や幻聴も同様の「経験」として心に蓄積し、特殊な方法で事実の変容を齎しています。
彼女が捉える対象は極めて単純化され、生々しい経験を元にその対象の中から抉り取るように核を抜き出します。その核は感情や幻覚で変容されて、読む者へ直裁的に突き付けます。しかしながら読み手は、不快感以上の興奮や悦楽を感じ取り、作品の世界へ引き摺り込まれます。そして、多くの作品の最後に待ち受ける「タロットを逆位置に」くるりと回すような感情落差を感じさせられ、虚無感ではない居た堪れなさが心の底へ重みを感じさせます。
本書『掃除婦のための手引き書』を「一日一篇」としてTwitterで投稿しました。それを以下に列記いたします。「一日一篇」の発起人みもれさん(@mimorecchi)、「一日一遍ルシア・ベルリン」にお誘いいただいたありむらさん(@arimuuu0211)に、この場でお礼を申し上げます。楽しい企画に参加させていただき、ありがとうございました。そして、本書を未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。
一日一篇ルシア・ベルリン
「エンジェル・コインランドリー店」
先住民族の集落が点在するアルバカーキ。「わたし」は近くの整備された清潔な店ではなく、断酒会で捧げられる祈りが掲げられた、凹み、汚れた、錆びた店に赴く。いつも言葉をかわす酒気帯びインディアンのトニーに会うために。鮮やかな色彩と、酒に溺れる心の共鳴。
「ドクターH.A.モイニハン」
祖父の神経質で歪んだ「わたし」への絆は、互いにのみ通じ合う意気を含む。酒で潤ける痛覚麻痺した祖父の歯茎からペンチで歯を捻り抜いていく彼らは、目的を見据えて一心不乱に完遂を目指す。抜かれた歯と、旧い面影を見せる入れ歯の対比は、祖母が過り生死が想起する。
「星と聖人」
シスターへの憧れは神的聖性を持って強さを増し、聖マリアへの熱心な祈りは自身の清廉潔白を研ぎ澄ませる。幼い「わたし」は炎の揺らぎに神を見て、聖職者の告解室で響く声に神を聞く。精神科医に届かないように、神の慈しみであるシスターにも胸の中の祈りは届かない。
「掃除婦のための手引き書」
神々よりシーシュポスが科せられた不条理な刑罰と重ねるように、「わたし」は掃除婦としての日々を語る。その都度に見出す享楽や嘲笑も泡沫のように無に帰する。バス停を辿る不毛の道は灰色の空が映り込むように濁り、それでも死を否定する心を涙で満たす。
「わたしの騎手」
落馬した騎手たちは砕かれた骨と共に緊急救命室へやってくる。迫害を受けた聖セバスチャンを受け入れるように彼らを五感で抱く「わたし」は、横たわる姿にエロティシズムを感じながら慈愛する。その感情はやがて母性へと変わり、子を労わるように震える歓喜を齎す。
「最初のデトックス」
泥酔で事故を起こし、郡立病院のデトックス棟で目を覚ます。居心地の良さを求めて周囲へ気の良い嘘を振りまく。彼女が思い返す日常は、日毎に酒の濃度を増すシングルマザーの憩いの時間。抗酒薬を恐れてリンゴ酢で凌ごうとする儚い意志は、嘘に慣れた甘えに霞む。
「ファントム・ペイン」
くずかごに話し掛ける程の幻覚は、娘を認識できなくなるまで父の正気を失わせる。ピクニックで登った大気の濁った丘の上、死と出会った景色との同化に感化されて、父は正気に戻り死を望む。「わたし」は亡くしたものの痛みから、愛に触れた過去を想う。
「今を楽しめ」(カルぺ・ディエム)
コインランドリーで他人が回し終わった洗濯機を誤って運転開始してしまった「わたし」。気の良い係員オフィーリアに、更年期を理由に庇われながら事なきを得る。乾燥できずに肩に掛けた洗い晒しの重いカーテンを家で干しながら、更年期と時を受け入れて焦燥を捨てる。
「いいと悪い」
支配する側であるアメリカの立場は「わたし」に富の生活を、チリの貧民には憎悪を与える。政治を理解しないまま、革命を望む家庭教師に連れ回され、貧民層と交流する。物事の価値は、立場と環境と性格で左右する。それでも築かれた感情は、心に一つの後悔を生む。
「どうにもならない」
死の淵に寝そべる魂は、激しい動悸と共に震える身体へ鞭打って、四ドルの生命の水を求めて走らせる。部屋に戻った「わたし」は生命の水を涙しながら飲み干して、死を逃れたことに感謝する。しかし、息子の目には生を遠ざける死の水に感謝する魂が見える。
「エルパソの電気自動車」
滑稽と悪ふざけを兼ね備えた聖書を引用する会話は、カビだらけの電気自動車の中で軽妙に愉しく弾む。汚れた聖なる個室は景色を驚くほど緩やかに運びながら、後続の車を苛立たせる。荒々しく迫る警察は本分を見失い、彼女たちへ悪罵した直後、神の鉄槌を受ける。
「セックス・アピール」
億万長者に目が眩んだ美しい従姉は、「わたし」を小道具のように用いて巧みに誘い込む。掴んだ名声を喜び讃える伯母は、色香で惑わせたという「わたし」の言葉に激怒する。欲に眩み堕落した愛娘ヴィーダに、裏切られてもなお愛そうとするミルドレッドのように。
「ティーンエイジ・パンク」
幼い反骨心は、社会に刃向かう危うさと思いもよらない成長を兼ね備える。大麻やアシッドに憧れを抱き、ビート世代が訴えた自由を求める個の尊厳を重視する。自由とセックスとドラッグを重要視するヒッピーの予備軍は、今はまだ純粋な感性によって社会から守られている。
「ステップ」
デトックス内のテレビを囲んでボクシングの試合中継を見守るアルコール中毒者たち。開始前のベットを忘れる彼らの意思の弱さは、劣勢の選手に惹かれてアンダードック効果に呑み込まれる。神に祈るように膝をつく敗れた姿を見て、自身を重ね神に救いを求める。
「バラ色の人生」(ラ・ヴィ・アン・ローズ)
母の浅い愛を受けていた二人の少女は、過保護な父たちに守られて休暇を過ごす。捩じくれ始めた少女たちの心は、友情の絆だけを強めていく。父に叱咤される彼女たちは、母の偉大さに項垂れる『秋のソナタ』のリヴとは違い、煙を薄く昇らせる火山のように静かに蠢く。
「マカダム」
囚人が道路舗装でマカダムを踏み固めるときに、ガリガリとした氷を齧る音が鳴る。囚人を縛り付ける鎖の硬質な音が混ざり合い、「わたし」は心地良く椅子に揺られながら聴く。踏みつけられ、押し固められるマカダムに、音の響きと言葉の響きに親近感を覚える。
「喪の仕事」
スラム街にひっそりと佇む手入れされた聖人の家。遺品整理を引き受ける「わたし」は、静かな部屋で遺された物の声を聞く。死の間際に贈られた真新しい家電製品は、息子が大事そうに車へ詰め込む。死は人に許すことを教えるが、その許しは死人には向けられない。
「苦しみの殿堂」
メキシコが放つエロスの香りと死の危険を毛嫌いした母。赤紫と橙で鮮やかに飾られた死の祭壇オフレンダは、魂を送り出す賑やかな祭。不快が漂う町と人から逃れるように酒を浴びて泣く母と、対照的にメキシコを愛す妹は、同じように肉体の死を孤独で迎える。
「ソー・ロング」
救いの手を差し伸べる成功者との情愛は、幸せを得て人生のB面を謳歌した。犠牲にした人々への罪悪は消えない。倫理に背く自身の行為を悔いることも、ロサンゼルス暴動で感じた怒りも、全てを手放すように死に向かう流れに身を任せる。じゃあね、と言って旅立つために。
「ママ」
愛を毛嫌いする皮肉屋の母は、実の娘たち以上に自分を愛した。自分の欲、自分の心、自分の思いを優先して、娘たちの未来の長さを憎み、怒りを娘たちにぶつけた。酒量を無視して自分の不幸を他者のせいにした。死を前にしてその母を許す妹の愛を「わたし」は理解しない。
「沈黙」
無言の抵抗は、更なる罵倒と不信を生む。奥底へ押し込められる心は、ただ盲目の信用のみを求める。無言の罪悪は、友を裏切り、妹を犠牲にする。誓いを破る浅はかな好奇心は、掛け替えのない宝を失わせる。盲目に信じてくれた叔父の罪悪は、「わたし」のみが理解する。
「さあ土曜日だ」
先進的な刑務所では労働に直結した資格取得や学びが提供される。文学教室では詩や散文を生み、クラス内で個を尊重し合いながら教師と信頼を結ぶ。精神は安定して穏やかになるが、心に秘めた決意を魂の気高さが呼び起こす。解放の日に喜びは無く、確実な死だけが在る。
「あとちょっとだけ」
突然やってくる死の恐怖は、周囲の時間を巻き込んで烈しく動き出す。生を痛感する自身の心は残してきた欲に絆され、心残りと後悔に包まれて先を憂う。死神が手招きをすると「本物の時間」が動き出す。時は恐怖を乗せて、捉え難い速さで進む。時が止まるまで。
「巣に帰る」
遠い過去には幾つもの未練と後悔が置き去られている。もう一つの選択肢に豊かな幸せの可能性を見る。犯した罪悪から目を逸らした「もしも」という空想は、自身が願う希望的可能性に過ぎず、やがて現在へと帰結する。カラスがカエデの木に帰るように。
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