見出し画像

『ハイ・ライズ』ジェイムズ・グレアム・バラード 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

ロンドン中心部に聳え立つ、知的専門職の人々が暮らす、新築の40階建の巨大住宅。1000戸2000人を擁し、マーケット、プール、ジム、レストランから、銀行、小学校までを備えたこの一個の世界は事実上、10階までの下層部、35階までの中層部、その上の最上部に階層化されていた。その全室が入居済みとなり、ある夜起こった停電をきっかけに、建物全体を不穏な空気が支配しはじめた。3ヵ月にわたる異常状況を、中層部の医師、下層部のテレビ・プロデューサー、最上層の40階に住むこのマンションの設計者が交互に語る。バラード中期の傑作。


第二次世界大戦争によって広がった戦禍は、荒廃と虚無を通して人々に絶望と破壊を提示して、それまで構築していた信仰や幸福を揺さぶりました。その影響は戦後文学にも影響を与え、かつての教義的な詩や物語は姿を変え、現実を見つめようとする社会の投影と、空想ではなくなった破壊衝動の恐怖と規模の拡大を描く作品が増加していきます。このような荒廃と破壊に焦点を当てた文学はサイエンス・フィクションにおいて発展していき、主に社会諷刺を含めて描かれていきました。しかし、この発展は暴力的な方面へと過剰に成長し、読者側に倦怠感を与え、内容も冗漫な印象を持った作品が増えたことで社会に受け入れられなくなっていきます。そのようなサイエンス・フィクションの風潮に変革を与えようとした運動が「ニュー・ウェーブ」です。これは1960年代半ばのイギリスで、科学の進歩を重視して宇宙へと物理規模を拡大しようとする既存のサイエンス・フィクションの発展の流れに対して保守的な印象を持ち、狭窄的になり自ら制限を加えようとする既存の文学区分に新たな風を巻き起こそうとするものでした。空想を外宇宙(アウタースペース)へと広げて非現実的な世界を膨大に広げていく発想ではなく、現実社会における人間の内側に視点を合わせ、精神内の未知の領域(インナースペース)へ意識を深めて、実社会との乖離と関わりを描き出す作風を生み出します。このような内宇宙を取り扱った作品は、舞台は閉塞的であり規模の小さなものが多く、登場人物の独白や思考を辿るものが多いという点が特徴です。


このサイエンス・フィクションにおける「ニュー・ウェーブ」を代表する作家の一人がジェイムズ・グレアム・バラード(1930-2009)です。彼は父親の仕事の都合で中国上海にて育ちました。当時の上海は、第一次阿片戦争を終わらせるために中国とイギリスで交わされた南京条約に基づいて定められた上海共同租界が継続していました。この列強国による実質的な植民地としての租界では、各行政による自治権や治外法権が存在していました。1937年に第二次世界大戦争が本格化しだすと租界の統制は各国の思惑によって崩壊し、各国軍による衝突が頻発するようになります。そして、1941年には日本軍による上海占領が行われ、多くの人々が集会所などへ抑留されましたが、十一歳のバラードもこの中に含まれていました。これらの各収容所での抑留は、日本の降伏に合わせて解放され、バラードは母と妹とともにデヴォン州プリマスへと移住しました。この「帰国」で戦後のイギリスの景色を目の当たりにしたバラードは、各国の先端技術が広められていた上海で培われた環境と見比べて、大きく頽廃的で悲観的な印象を与えられます。


英国ではケンブリッジの名門レイズ・スクールへ通い医学の道を目指しますが、解剖学や精神医学に触れるうちに医学的な意味合いではなく人間の本質的な内面へと関心を強めていきます。また、そのような関心は読書にも向けられ、遂には自らで筆をとり始めました。生み出した作品は早々に雑誌に認められて、バラードは短編小説を中心に量産していきます。そして文学の造詣を深めようとロンドン大学へ入学し、英語を学びながら文学を吸収しようとしますが、講義は教義的な意味合いの学びが多く肌に合わないと感じて学位を捨てて退学しました。その後イギリス空軍へ入隊しますが、その頃に読んでいた雑誌に掲載されていた多くのサイエンス・フィクション作品に心を動かされ、自らも歩んでいきたいと強く望むほどに目覚めました。


バラードが何度も唱えていたことは「変革の必要性」でした。1950年代のイギリス文学は革新に対して抵抗しているといったほどに、古典的な風潮を守り抜こうとする姿勢を見せているように彼には感じられました。教義的な文学思潮を守り通そうとするあまり、現実社会との乖離が生まれ、哲学や思想が読者と遠く離れていくように見えました。そして世に出回るサイエンス・フィクションに至っては星界を駆け巡り、規模が延々と大きくなる物語に辟易した雰囲気が文壇に現れており、バラードは八方塞がりな印象を受けます。そして前述のように、サイエンス・フィクションにおける変革としてニュー・ウェーブを起こし、内宇宙(インナースペース)へと思考を深める運動を、筆を持って引き起こしていきました。


彼が用いる舞台設定は閉塞と頽廃が共存する環境が多く、そこに群衆が集まり、そのなかで揺れ動く登場人物の心理を覗く形態が基盤となっています。この法医学的な視点での精神分析は、群衆心理と群衆における個人の意識を微細に映し出し、読む者を同調的な感情へと導きます。この意識を表現して「内なる未知」を追究しようとする際、バラードはシュルレアリストたちの創作方法を参考にしていました。特に影響を与えたのが、ベルギーのシュルレアリスム画家ポール・デルヴォーやカタルーニャの画家サルバドール・ダリでした。執筆においてこの独特の創作手法を用いていたバラードは、作家として唯一無二の存在を目指すとともに、「インナースペース」を追究する方法の構築を目指しました。そして自身のペルソナを見いだすとともに自己のインナースペースの探究をも続けて、彼の作品は執筆を重ねるごとに変化を見せていきます。


本作『ハイ・ライズ』は1980年に発表されました。四十階建て千戸のマンションを舞台に、人間の持つ階級意識と暴力的な深層意識、そして頽廃と野性の露出が読み進めるほどに明らかになっていきます。スーパーマーケットやプール、学校にレストランなどが備わり、仕事以外の生活は全てマンション内で完結するという理想的とされる環境に、富裕層の知識人たちは続々と入居していきました。しかしやがて、上層、中層、下層と区分けされ、やがて階級意識が明らかになっていき、暴力的な抗争が勃発します。マンションは共用スペースだけでなく各部屋も破壊と廃棄物で溢れ、高級で美しい外観は見る影もなくなります。まともに生活も出来ないサバイバルのような環境となりますが、住人たちはこのマンションから離れようとせず、派閥的な階級抗争に憑かれたようにのめり込んでいきます。


この感情はバラードが生み出した造語「逆クルーソー主義」を表現しているもので、ロビンソン・クルーソーが望まず漂流者となったことに対して、バラードの描く登場人物が自らを閉塞的な環境に留めようとする行為や感情を言うものです。この自分を苦しい環境へ追い込んでいるように見える行為は、登場人物にとってはその閉塞的な環境こそが力を与える癒しであり、自己を有意義で活力のある存在であると認識します。インナースペースは「内に潜む本能」とも言い換えられ、自分でも気付かない欲望や適性が変化した環境によって表面に露わとなり、既存の価値観を崩壊させるほどの欲望が新たに浮かび上がって、想像もできなかった自己の感情と出会うことになります。このような「内なる自己」を表現することはまさにシュルレアリスムの目指すものであり、バラードはサイエンス・フィクションという文学を用いて芸術的に体現していたのだと言えます。


ここで彼らは食物と女をいかにして調達し、上層階を略奪者からどうやって守るかについて、最新の策を論じ、同盟と裏切りの計画をねったのだ。いまはもう新秩序が生まれ、そこではマンション生活の一切は、安全、食物、セックスという三つの妄執を中心にうごいていた。
テーブルをはなれたロイヤルは、銀の燭台をつかんで窓へ持って行った。もうマンションの明りはすべて消えている。四十階と三十七階のふたつの階だけ、まだ電気は通じているのだが、そこも明りはつけられなかった。闇のほうが気持ちは休まる──本物の幻影が栄えるとすればそこだ。


ジョゼフ・コンラッドに影響を受けたバラードは、人間の内面に潜む闇を「宇宙の闇」と照らし合わせて追究します。社会の秩序と理性で覆われた本能は、自意識では気付くことのできないほどに深く深くへ沈んでいます。しかし社会が崩壊したとき、抑え込まれていた人間の「本能的な欲望」が内から現れ、頽廃的な環境に安堵して光よりも闇を望むように変化していきます。そのような「内なる未知」が現れていくさまが本作では見事に描かれています。

バラード中期の代表作『ハイ・ライズ』。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?