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『青い眼がほしい』トニ・モリスン 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

黒人の少女クローディアが語る、ある友だちの悲劇──。マリゴールドの花が咲かなかった秋、クローディアの友だち、青い目にあこがれていたピコーラはみごもった。妊娠させたのはピコーラの父親。そこに至るまでの黒人社会の男たちと女たち、大人たちと子供たちの物語を、野性的な魅惑にみちた筆で描く。白人のさだめた価値観を問い直した、記念すべきデビュー作。

1993年に黒人作家として初のノーベル文学賞をしたトニ・モリスン(1931-2019)。彼女は、文壇として光を当てられていなかったアメリカ社会の側面、白人による人種差別やそれに伴う社会への弊害、このような影響を受け入れた社会で暮らす人々の実態を強く詩的に表現した作家です。本作『青い眼がほしい』は、第一作でありながらモリスンの持つ思想や表現が凝縮された作品です。


1941年、オハイオ州ロレイン郡を舞台として描かれます。酒に溺れた暴力的な父親、愛情に諦めを見せる厳しい母親、家出を繰り返す兄、そして全てを拒否された者のように自己を批判する妹ピコーラ。家庭として崩壊を見せているこのブリードラブ家は、貧困と蔑視による最下層の生活を送っていました。本作は、このピコーラの友人クラウディアによって主に語られていきます。ピコーラの抱く悲観的な感情は、与えられる貧困と蔑視が自分の醜さに原因があると考えています。いじめを与える同級生も、愛を与えてくれない両親も、全ては自分の醜さにあると思い込んでいます。そこで彼女は、この社会の誰もが「美しい」と認める「青い眼」を与えてくれるよう、神に祈ります。白人のようなその眼があれば、社会の誰もが自分を美しいと認め、現在のような蔑まれた生活から抜け出せると考えていました。


スペインにより始まった大西洋奴隷貿易によって築かれたヨーロッパの価値基準は、プランテーション奴隷制度とともにアメリカへと持ち込まれました。白人の優位な立場は、白人の持つ「もの」に優位性を持たせ、眼の色、肌の色、趣味、嗜好なども「よりよいもの」であるという価値基準を助長させました。白人優位の美意識は社会に根付き、その社会は差別となって広がっていきます。白人による抑制と差別は「差別社会自体」をも成長させ、本作にも挿入されている教科書にまで現れています。アメリカという国そのものが「白人優位」を推し進めて、それを幼少期から刷り込ませるという取り組みを行っていました。教科書に描かれた幸せな家庭像は、黒人には絶対に達成できない幸福像であり、幸福そのものを諦めさせる効果を生んでいます。


この強制的な白人優位社会は、黒人社会にも悪影響を及ぼします。混血を繰り返して生まれた黒人は肌の色が薄まり、社会進出にも混血の際の伝手によって財産や地位を得やすくなります。この混血によって黒人の中でも肌の色の違いが生まれ、色の薄い「カラード」と色の濃い「ニガー」という区分けができてしまいました。これは黒人内差別という形で社会に広まり、白人による迫害よりも暴力的で徹底されたものとなっていきました。ピコーラはこの「ニガー」に該当し、白人から差別された黒人、そのカラードが差別するニガー、そのニガーの暴力的な父親と愛情を与えない母親の元に怯えながら暮らし、幸福を得ることができないという刷り込みを社会から与えられた「最下層」の少女という立場でした。

しかしモリスンは、この父親もまた不遇の立場による被害者であったという点も詳細に描写しています。両親に望まれない生を受けた父親は過酷な生活を送り、その結果に倫理観を崩壊させ、自由と無責任を理解できない人間に育て上げたという悪の社会を表現しています。差別による被害意識は絶望へと導き、生の意味や価値さえも求めなくなっていきます。飛散した西瓜、ソファの裂け目、妻(ピコーラの母)ポーリーンの歯、これらは父親の精神破綻や家庭分裂の暗示となって描写され、ピコーラの価値観を崩壊させた混乱の家庭環境、それに伴う両親の崩壊、家庭の崩壊へと繋がるさまを鮮烈に描いています。


本作を通してモリスンは肉体的な美しさの定義は白人優位社会によって構築されていると説いています。そして人間の人格や性格は外見に現れるという「白人にとって都合の良い」解釈が強められており、抑圧された黒人たちは絶対的に覆らない美徳の優位性(眼の色、肌の色)を強制されることによって、抑圧する白人(或いは白人優位社会)に対して反抗するのではなく、その優位基準に基づく自分たちよりも劣等とされる者(ニガー)へと牙を向くようになります。

この美醜の基準は作中で多く触れられ、自分を取り巻く社会で自分がどのような立場にあるのかを定められているように感じさせられます。白人優位基準による自分の美醜が、周囲のコミュニティや家庭での立場に影響し、ピコーラは「最下層」の基準を自覚しています。本来、美の概念は自己の尊厳を保つことに必要なものの一つです。しかし、ピコーラは自身で「最も醜い存在」であると自覚しており、周囲からもその考えを裏付ける扱いを受けていました。この考えが家庭での虐待さえも「正当なもの」であるという誤解を招き、この「最下層の立場」から逃れるための願いとして「青い眼」を神に願いました。ピコーラにとっての「最も美しいもの」がこの願い物であり、唯一の劣悪環境から脱出する術であるとの考えに至りました。


ピコーラは虐げられる生活を続けるなかで、日毎に青い眼を望む願いを強めていきました。そして堕落的な偽牧師にそれを打ち明けて強く願います。誑かされたピコーラは願いが神に届いたと解釈し、青い眼を手に入れて最下層から抜け出すことができると安堵します。そこに、酔った父による性的虐待を受けたことで彼女の精神は崩壊し、願いが真に叶ったと思い込んでしまいます。破綻した精神は分裂し、ピコーラと妄想の「もう一人」との会話が終幕で進められます。実際に自分に対する周囲の扱いが変わったことを感じ、願いが叶ったと信じ込みました。しかし実際には、父親に性的虐待を受けたという事実と、精神が崩壊した奇異な行動(妄想の一人と会話をするような)が原因であったことは理解しないまま終わります。ピコーラは狂人の世界に踏み入りました。


モリスンはピコーラの描写を通して人種による差別や抑圧が、本来人間が持ち得るはずの自信や自己価値を失わせるという影響を提示しています。生まれた瞬間に幸福を切り離された存在、そのような不幸な社会に生きるという苦痛は、大変理不尽であると言えます。しかし、どのように差別され、どのように抑圧されたとしても、白人優位社会を拒否し、自身の肌の色に誇りを持って前を向くことができていたならば、新たな救いが現れるのではないかと思います。


愛は、けっして愛する者以上にはならない。よこしまな人々はよこしまに愛し、はげしい人々ははげしく愛し、弱い人々は弱々しく愛し、おろかな人々はおろかな愛し方をするが、自由な人間の愛が安全なことはかつてない。愛する相手に捧げる贈りものがないからだ。愛する者だけが、愛の贈りものを持っている。愛される者は、愛する者のぎらつく内なる眼の光のなかで、裸にされ、無力にされ、凍らされる。


愛する者の価値観や倫理観は鏡のように愛する相手へ投影し、愛される側を支配します。その価値観や倫理観が歪められた社会によって構築されたならば、確実に歪んだ愛し方となり、愛された者は与えられる愛によって精神を崩壊させられます。差別社会は表面的な暴虐行為だけでなく、被害者側の精神へ深い歪みを刷り込みます。愛しい人を正しく愛すことができないという不幸を、差別社会や差別行為は生み出していきます。モリスンが本作に込めた思いは、非常に深く重いものです。現在でも無くならない差別という行為は、次々に不幸を生み出し続けています。そのような行為を起こすことのないよう、日々を意識して過ごしたいと考えさせられました。

トニ・モリスン『青い眼がほしい』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


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