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『若き詩人への手紙/若き女性への手紙』ライナー・マリア・リルケ 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

『若き詩人への手紙』は、一人の青年が直面した生死、孤独、恋愛などの精神的な苦痛に対して、孤独の詩人リルケが深い共感にみちた助言を書き送ったもの。『若き女性への手紙』は、教養に富む若き女性が長い過酷な生活に臆することなく大地を踏みしめて立つ日まで書き送った手紙の数々。その交響楽にも似た美しい人間性への共同作業は、我々にひそかな励ましと力を与えてくれる。
紹介文より

現在のチェコ共和国のプラハで生まれたライナー・マリア・リルケ(1875-1926)は、オーストリア・ハンガリー帝国の激動に翻弄されながらも、自己を曲げず、自己と向き合い、心を豊かでいようと努めた偉大な詩人です。

十九世紀後半にイギリスで起こった産業革命はプロイセン、オーストリアを含むドイツ連邦へ大きな危機感を与えます。農業を中心に経済を支えていた連邦は、世界の大きな工業化の流れに乗り遅れることを恐れ、ドイツ連邦を一つの統一国として形成して対抗しようと試みます。しかし、オーストリアの持つ国力が大きく、他の連邦国が属国となり得る危険性がありました。また民族主義の観点から異民族を統一ドイツへ含むことを反対する主義者も多くあり、本来は融和的な関係であったものが徐々に亀裂を含み始めます。そして「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクがプロイセンの首相となり、1867年に普墺戦争(プロイセン・オーストリア)を勃発させて勝利します。その後、1871年には普仏戦争(プロイセン・フランス)で勝利し、統一ドイツ国家を作り上げました。
軍事力で弾圧的に統一されたドイツ国は過去の権力者を排除します。オーストリア・ハンガリー帝国を保ち続けてきたハプスブルク家は凋落し悲惨な最期を迎えました。立て続けに変革のために流される血を見つめ続けた民衆は鬱屈し、民衆同士でさえ民族主義的な嫌悪を覚え、一向に豊かな生活を得ることができませんでした。

リルケは元軍人の家に生まれます。戦争に貢献した軍人には国からある程度の恵まれた暮らしを与えられていました。また伯父が貴族であったことで、財力的には豊かな生活の元で過ごします。父はリルケに軍人を目指すよう諭し、陸軍幼年学校、士官学校へ通わせますがリルケの内向的な性格が校内の環境に合わず中途退学します。その後、商業学校に通い、そこで書いた詩が発端となり執筆を始めていきます。プラハ大学、ミュンヘン大学で学びますが、ここでイワン・ツルゲーネフの作品と出会いロシアに惹かれ始めます。二度のロシア旅行で見た、大地と苦悩に生きる大衆の姿に強く影響を受け、本腰を入れて自身の詩作の執筆に励みます。彼らの過酷な環境における信心の強さ、深さはリルケの精神の見方を変化させました。

この頃、ロシアへ行く前年のイタリア旅行で親交を持った若い芸術家の一人である彫刻家のクララと結婚します。リルケは、クララの師匠であるオーギュスト・ロダンの芸術に感銘を受け、1902年にリルケは意を決して『ロダン論』という評論の執筆に取り掛かります。取材のため近くなった彼らの距離は、互いの心を徐々に親しくさせて秘書として雇われるに至ります。間近で触れるロダンの芸術観、或いは芸術作品は「事物の芸術性」を放ちます。事物が内に持つ「もの」を真っ直ぐに「表現」させることを学び、自身の詩作へ活かさなければならないと努力します。

『若き詩人への手紙』は1903-1908年の間で交わされました。ロダンの作品から事物の正確性、真実の厳密性に大きく影響を受けたリルケは、自身の詩作にも「事物の芸術性」を求めます。

必然から生れる時に、芸術作品はよいのです。こういう起源のあり方の中にこそ、芸術作品に対する判断はあるのであって、それ以外の判断は存在しないのです。だから私があなたにお勧めできることはこれだけです、自らの内へおはいりなさい。そしてあなたの生命が湧き出てくるところの深い底をおさぐりなさい。

近代芸術からモダンへと変遷を辿る最中、リルケはロダンだけでなくセザンヌやピカソ、ボードレールなどの作品に出会うたび、彼の中にある芸術性を深いものへと形成していきます。
その後、再びイタリアへ赴いたリルケは、貴族の伝でアンドレ・ジイドと知り合います。互いに内に孤独を抱え、芸術性を追求していた彼らは惹かれあい、友情を育みます。執筆の意見や助言をそれぞれ手紙で交わし、支え合いながら高め合っていきます。しかし間もなく、第一次世界大戦争が勃発します。彼らはそれぞれ敵国の者となりますが、友情で繋がり続けます。リルケの財産を取り上げられた際、ジイドは憤慨し、友人のロマン・ロランと共に自国へ解放するよう駆け回ります。ですが、尽力虚しくリルケの保管してあった草稿は、財産と共に失われてしまいました。

『若き女性への手紙』は1919-1924年の間で交わされました。戦争により周囲のものが失われたリルケは、自然と内在の自己を強く見つめていきます。本当に大切なものは何か、自分は何者か、何を求めているのか。このような自問は、彼の意識を心の内へ内へと追求させていきます。そこでたどり着く境地は、とても優しく強い信念と、穏やかな意識でした。

今やあなたは日常のうちに、あなたのこれまでの三つのエレメント、空と樹と耕された大地ーー、その寡黙さと、その打ち明けの激しさとを経験されているわけですね。しかし内面世界のために、今やまた海の大四次元があなたにとって体験し得るものとなったこと、このことこそ、ほとんど名匠の手腕による存在の均整を生み出すものではないでしょうか。

生活に苦しみ、病に苦しみ、孤独に苦しんだリルケは、それでも豊かな心を感じさせてくれます。感情や記憶、経験や自己を自身の財産として大切に扱っているからこそ生まれる言葉があります。

人生をしてそのなすがままになさしめて下さい。どうか私の言うことを信じて下さい、人生は正しいのです、どんな場合にも。

リルケの詩作の方向性が定められた時期に書かれた『若き詩人への手紙』、最晩年にたどり着いた人生の価値観で書かれた『若き女性への手紙』。どちらも心響かされる言葉を多く含んだ書簡です。彼の真摯的な言葉は翳った心を暖かくしてくれます。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


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