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『夜歩く』ジョン・ディクスン・カー 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

パリの予審判事アンリ・バンコランは、剣の名手と名高いサリニー侯爵の依頼をうけ、彼と新妻をつけねらう人物から護るために深夜のナイトクラブを訪れる。だが、バンコランと刑事が出入口を見張るカード室で、公爵は首を切断されていた。怪奇趣味、不可能犯罪、そして密室。カーの著作を彩る魅惑の要素が全て詰まった、探偵小説黄金期の本格派を代表する巨匠の華々しい出発点。
紹介文より

「密室派の総帥」「密室の王者」などの異名を持つ偉大な推理小説家ジョン・ディクスン・カー(1906-1977)。そのデビュー作である『夜歩く』です。

1929年、アメリカ合衆国での株価大暴落が起因となり、ヨーロッパ全土にまで不況を広めた「世界恐慌」。ドイツでは第一次世界大戦争における敗北から国を復興させようと、アドルフ・ヒトラーが「反ユダヤ主義」を掲げ国家をまとめあげていました。そしてフランス第三共和制は、国内における極右組織(クロア・ド・フー、アクション・フランセーズなど)により、内紛が徐々に激しくなっていく最中でした。このようにフランスは、ドイツを筆頭とする国外と、極右組織による国内の、両面から危機を挟む格好となっていました。

この時代の花の都では、ハンガリーの写真家ブラッサイが「夜のパリ」で残したような、煌びやかで耽美的な情景と、種々の煙が香る狂気性とが合わさった独特な世界が、酒と共に人を酔わせます。世情の不安から逃れるように都へ訪れる男女は、恐れながらも人との交わりを求めます。本作の事件は甘美溢れる退廃的なナイトクラブの一室で起こります。

この物語における探偵役である予審判事アンリ・バンコラン。どこまでも丁寧な口調と紳士的な物腰でありながら、仕草や行動、或いは思考からは陰鬱さが醸し出され、冷たい笑みからはシニックな人物像をより膨らませます。
『夜歩く』(原題:It Walks by Night)は劇中に登場する人狼から創造したタイトルで、猟奇的恐怖を連想させる一方、煌びやかな大人の散歩をも想像させます。そして、その双方の印象を見事に盛り込んだ作品と言えます。

登場人物たちは実人間的な思考に基づいて行動します。死体を発見した際、「密室だったのか」「加害者は誰か」という思考に及ぶのではなく、「死体の放つ悍ましさ」に恐怖したり、「被害者に対して同情」する心が芽生えたりと、丁寧に描写されています。そしてバンコランの促しにより、密室の不可能犯罪という姿が浮かびあがって推理が始まっていきます。
また、この作品の魅力の一つとして外すことが出来ない要素は「密室トリックではない方のトリック」が挙げられます。心情、感情、愛情、人の心が純粋な狂気へ変わり、悍ましい行動を取ったが故に出来上がったこのトリックは、読者を驚愕させます。また、これらを伝える筆致も見事で、物語の初めから最後まで心が落ち着かず安堵ができない「鈍い恐怖及び狂気」を帯びている作品に仕上がっています。

このアンリ・バンコランシリーズはカーの初期作品群に該当します。その内容の陰鬱さやバンコランのシニックな性格が原因となり、発表当時はあまり支持されませんでした。しかし、彼が生涯作品に込め続けた「陰鬱な怪奇性」を、耽美的で退廃的な「夜のパリ」のように描き出し、最も強く感じることができるシリーズでもあります。
後期の代表作とされるギデオン・フェル博士シリーズ、ヘンリー・メリヴェール卿シリーズでは「怪奇性」が薄らぎ、「怨恨」が前面に出されるようになります。また「怪奇性」自体が物語の装飾的存在となり、トリックやプロットに意識を深めていきます。フェル博士シリーズの『三つの棺』という作品で説かれる「密室講義」では、物語の中を出てカーの声として、古典ミステリーの分類や解説が語られます。これが「密室派の総帥」と言われる所以でもあります。

本作『夜歩く』の特徴的な要素として、ロマンティシズムとエロティシズムが混ざり合った「空気の重さ」が挙げられます。登場人物たちの心理は猟奇性に恐怖するだけでなく、退廃的な世情に流され、目の前の快楽に貪欲であると共に、自身の愛に盲目となり理性を失った行動を起こします。だからこそ、シニックとも言える冷淡さを帯びたアンリ・バンコランが一際に異彩を放ち、圧倒的な存在感を誇っています。一介の「謎解き屋」ではなく、物語そのものを制御する「指揮者」のように感じさせられます。

そうだよ。同じ人間さ。今回の人殺しはまったく血も涙もないやつだ。こういう所業を勧善懲悪の正当行為だと固く信じこんでいるんだよ。犯罪というものはね、世間なみでは表現しきれないほど深い恨みを、世に叩きつけるための方便だからね。

バンコランの放つ言葉には、冷たさや力強さが目立ちますが、その奥には確実な正義が存在しています。

カーの華々しい作家人生の幕開けである本作。ミステリーを好む方で未読の方は特に読んでいただきたいです。
では。


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