『キャッツ』T・S・エリオット 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
イギリスの偉大な詩人、トーマス・スターンズ・エリオットの『キャッツ』です。邦題として『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』と添えられています。日本では「劇団四季」のミュージカル名が広まっているので、これに合わせて『キャッツ』とされています。
1888年、T・S・エリオットはアメリカのセントルイスで生まれました。大学創設に貢献したイギリスからの移民の家系で、そして父母ともに文才に恵まれ、生まれてすぐに文学に触れる環境で育ちました。裕福なまま大学へ進み、モダニズムに惹かれ徐々に文学士としての道を歩み始めます。ヨーロッパ留学から帰った後、イギリスへ渡り本格的に活動を始める傍ら、ヴィヴィアンという女性と結婚します。しかし、父親は認めず、エリオットへの一切の支援を打ち切ります。銀行の渉外で働き、ヴィヴィアンの神経症を支えながら執筆を続けます。そして詩集を何作か発表し、英米において認められ、大きな成功を手にします。
彼の代表作『荒地』は第一次世界大戦争を終えた新しい世界の捉え方として大きく話題となります。映画『地獄の黙示録』で数多く引用され、若い世代に大きく支持されることになります。この後、1925年に『うつろな人々』を発表し、詩人として専念するため銀行を退職し、「フェイバー・アンド・フェイバー社」で編集者として生きていきます。この頃にイギリス市民権を得ます。その後も活躍を続け1948年、今日の詩文学への卓越した貢献に対して、ノーベル文学賞を受賞しています。
『キャッツ』はエリオットが「フェイバー・アンド・フェイバー社」社員の子供向けに書いた作品です。ニコラス・ベントリーの挿絵と、軽妙で躍動感のある猫たちの描写が心を晴れやかにさせます。しかし「ナンセンス性」が強く、瞬間の楽しみとは裏腹に、読後に疑問が多々溢れます。それでも不快ではなく、何故か心が暖かくなる不思議な詩です。この作品は原文で「韻律」を駆使した実験的作風ともなっており、より軽妙さを際立てた読後となって子供たちには受け取られたように思います。
この作品をミュージカルに生まれ変わらせたのが、アンドリュー・ロイド・ウェバーです。イギリスの作曲家であるウェバーは、詩集『キャッツ』を幼い頃から読み聞かせられていました。空港で偶然に手に取ったその懐かしい詩集を改めて読み、語られる猫達の軽快な躍動感に、あらためて衝撃を受けます。このインスピレーションがミュージカル化への発端でした。
詩集の『キャッツ』は一五篇の詩で成り立ち、それぞれ独立した猫のストーリーが描かれています。一貫した物語にはなっておらず、またそれぞれのストーリーに関係性は殆どありません。全体を捉えた場合にも「ナンセンス性」が目立つのみで、テーマやメッセージが見えてきません。
ミュージカルとして完成させるには「一貫したテーマ」が必要でしたので、ウェバーは行き詰まります。そこに救いの手を差し伸べたのがヴァレリー夫人でした。ヴァレリー夫人はエリオットがヴィヴィアンと別れた後に一緒になった妻です。エリオットが亡くなり、未発表の『キャッツ』の一篇「娼婦猫グリザベラ」を託されていました。
イギリスには7つの階級制度が存在します。プレカリアートからエリートまで。『キャッツ』に登場する猫達もよく読むとそれぞれ階級が違うように見受けられます。「娼婦」であるグリザベラはプレカリアートで最下層に該当します。彼女(猫)は過去を背負い、祈りながら歌い続けます。そしてミュージカルの中で「一年に一度、天上に登る唯一匹の猫」に選ばれます。ウェバーは、この「祈りと救い」を普遍的なテーマ性として表現し、そして一貫性を持たせた演劇として完成させる事が出来たのです。
ウェバーを救った一篇「娼婦猫グリザベラ」は何故書かれたのでしょうか。子供向けに書こうと念頭に置いていながら「娼婦」が浮かぶのは、どうも不自然で腑に落ちません。ゲーテ『ファウスト』の「メフィストフェレス」のアナグラムで隠喩する程の作者が、考慮せずに書いて未発表とする事は無いと思います。
見えないバックボーンとして、イギリスの階級社会を風刺した作品として執筆し、「娼婦猫グリザベラ」の一篇が鍵となって完成する詩集を、「子供向けの軽快な韻律遊びの詩集」として出版したと考えると、モダニズムに傾倒したエリオットの遊び心と捉える事が出来るのかもしれません。
劇団四季主催者、浅利慶太さんの『時の光の中で』という自伝的作品での言葉です。
秘められたメッセージを勘繰りながら、軽快で楽観的な詩集を読んでみてはいかがでしょうか。楽しい気分になりますので、未読の方はぜひ読んでみてください。
では。
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