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『雁』森鴎外 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

生まれてすぐに母を亡くし、貧困の中で父親に育てられたおとなしい娘お玉、父親に楽をさせたいと高利貸し末造の妾となった。上野不忍池にほど近い無縁坂にひっそりと住むお玉は、やがて、毎夕の散歩の道すがら家の前を通る医学生岡田と、窓越しに微笑を交わすようになり……。

森鷗外(1862-1922)は、現在の島根県に位置する津和野藩で典医を任されていた父親の長男として生まれました。当時における嫡男意識は当人にも世間にも強く持たれて、森鷗外自身もやはりそうあろうと努めて医学の道へと進みます。十歳のときに父親に連れられて上京するとドイツ語を学び、東京大学予科へ最年少で入学して医学を修め、卒業後に軍医となって衛生学を学ぶために渡独しました。帰国後に軍医としての論文の傍らで文学の翻訳や批評を行います。その頃に自身でも作品の執筆をはじめ、『舞姫』などの初期作品群を世に発表して、西洋主義に見られる個人の自由精神や自我の目覚めを描いた浪漫主義の先駆者として名を知られるようになりました。


1894年に勃発した日清戦争に出征すると、勝利した日本は台湾を監督する組織へ森鷗外を派遣しました。約四ヶ月の勤務を終えて帰国すると、幸田露伴や斎藤緑雨とともに『卍』を創刊して評論を継続します。翻訳や論評を重ね、本業の軍医も抜からずに務めていた彼に、第一二師団軍医部長として小倉へ左遷される人事が下されます。軍医が開業医などの兼業を禁ぜられていたことを、執筆にこじつけるように理由付けされていました。発令した第七代陸軍省医務局長の小池正直は鷗外と大学の同級生でしたが、歳下ながら(鷗外は年齢を若く詐称して入学した)自分よりも良い成績であったことを妬み続けた報復行為でした。鷗外は憤慨するものの表には出さずに隠忍し、左遷の地で継続して執筆の構想や翻訳作業に精を出しました。耐え続けた彼は、反小池派の協力を受けて第一師団軍医部長に任じられ帰京します。1904年の日露戦争に第二軍軍医部長として出征すると、軍務の合間を縫って詩歌の創作に励み(『うた日記』などに収められる)、凱旋帰国後も山縣有朋の意向を受けて賀古鶴所と共に起こした歌会「常盤会」を開催し、山縣有朋の死まで継続しました。


1907年に四十五歳で陸軍省医務局長に就任すると、今まで抑えていた文学の執筆を再開します。その頃の日本の文壇は、『破壊』や『春』などの島崎藤村、田山花袋『蒲団』、正宗白鳥『何処へ』といった、西洋で生まれた人間のあるがままを描く自然主義の影響を受けた苦悩を描く私小説群が勢いを持っていました。それらの風潮に対して警鐘を鳴らすように、客観的な目線で理知的な文学世界を打ち付けたのが、反自然主義と区分される「余裕派」の夏目漱石と「高踏派」の後期森鷗外です。「高踏派」は、浪漫主義の詩的さと過度の感傷性を否定した厳格さに、異国趣味を伴って古典的命題を描き出す作風です。これが如実に顕れた作品が『ヰタ・セクスアリス』です。

僕はどんな芸術品でも、自己弁護でないものは無いやうに思ふ。それは人生が自己弁護であるからである。あらゆる生物の生活が自己弁護であるからである。木の葉に止まつてゐる雨蛙は青くて、壁に止まつてゐるのは土色をしてゐる。草むらを出没する蜥蜴は背に緑の筋を持つてゐる。砂漠の砂に住んでゐるのは砂の色をしてゐる。Mimicryは自己弁護である。文章の自己弁護であるのも、同じ道理である。僕は幸にそんな非難を受けなかつた。僕は幸に僕の書いた物の存在権をも疑はれずに済んだ。それは存在権の最も覚束ない、智的にも情的にも、人に何物をも与へない批評といふものが、その頃はまだ発明せられてゐなかつたからである。

森鷗外『ヰタ・セクスアリス』


こうして創作活動に熱を込めていたなか、1912年に病によって明治天皇が崩御し、それを追って兼ねてより親交のあった乃木希典陸軍大将が自刃して亡くなったとの報が入ります。この事件は世間でも乃木大将に対する感情が二分されており、文壇においても志賀直哉や武者小路実篤などの新世代である白樺派(人道主義や理想主義で描く作風)などから冷笑的な反応がありましたが、鷗外はこの批判を抑えるべく『興津弥五右衛門の遺書』を書き、漱石は『こゝろ』を発表して非難を抑えようとしました。この事件を挟むように執筆して発表した作品が本作『雁』です。鷗外が発表した数少ない長篇小説の代表作となっています。


不慮の災難とも言える泡沫の婚姻によって不幸を抱えた女性お玉は、年老いた父親の暮らしを豊かにするため金満家である末藏の妾へと身をおとします。見目の麗しさと自己犠牲の心は、読者の同情を募らせ、仕草から見えるいじらしさ、言動の愛らしさは、無垢性を見せる哀れさを感じさせます。しかし、金満家が実は高利貸しであったことがわかると、お玉は騙されたという感情に苛まれます。父親の暮らしを守るため、この事実を知らせるわけにはいかない、恵まれた暮らしを守るためには耐えるしかない、そのような感情から次第に自己犠牲を見せた心は変化していきます。無自覚のなかで献身に生きてきた彼女は「自己」に目醒め、柵からの解放を望みます。あるときに末藏が持ち帰った籠に入った紅雀が、籠の隙間から首を入れた青大将に襲われました。これを通り掛かった主人公の友人の岡田が救います。お玉は籠に捉われた紅雀と自身を重ね合わせ、岡田が自分をこの境涯から救ってくれるのではという思いから心を奪われていきます。解放への翹望は拍車を掛けるように高まっていきました。末藏が仕事で今夜は帰らないと知らせると、お玉は今日こそ岡田へ思いを伝えようと決心し、小間使に暇をやって身支度を整え、日々の散歩へやってくる岡田を心待ちにします。その日、主人公の献立が好きではない鯖の味噌煮であったことから、岡田を誘って外へ出向きます。岡田は留学が決まり、すぐにもドイツへ旅立つことを打ち明け、二人で池の方へと歩いていきました。そこに友人の石原が遠くを眺めているところへ出会します。話を聞くと池で休んでいる雁を石で仕留めて食したいということで、気乗りしないままも二人は手伝うことになりました。幸か不幸か仕留めることができた雁を、三人で隠すように持ち帰る道中、お玉の家の前を通ります。待ち受けていたお玉に、それと知らず軽く会釈をする岡田はそのまま三人で通り過ぎていきました。


献立が鯖の味噌煮であったことが、友人との出会いを引き合わせ、男女の会話を引き離し、一羽の雁の生命を奪うという、巡り合わせによる悲哀が手の施しようのない流れるような偶然性に込められます。冒頭と結末に本作『雁』は物語であることを強調して描いています。これは自然主義へのアンチテーゼと言え、鷗外は高踏派としての立場を明確にしています。人境と詩境の混濁、現実と浪漫の混濁は、偶然性で紡がれながらも登場人物たちの感情を緻密に描いて、読者に解決できない悲哀を提示します。


鷗外は文明開化、日本の近代化に答えを見出し、それを世に伝えようと努力しました。医学においても、文学においても日本を真の意味で近代化させようと、啓蒙活動に情熱を注いでいたと言えます。このような意識から作品に自身の主義を明確に込めて、日本の意識を導こうとしていました。これを成した根源は、生まれながらの嫡男意識が強く持たれていたからだと考えられます。当時に跋扈していた権威主義や、それに対する虚無主義に対して、それではいけないと数多くの作品で訴えを投げ掛けています。また、その行為は鷗外自身の救済にも繋がり、成さねばならないという嫡男意識から生まれる焦燥と、対峙している変化を感じることが困難な問題から、執筆によって救うことができました。

わたくしには初より自己が文士である、芸術家であると云ふ覚悟は無かつた。また哲学者を以て自ら居つたことも無く、歴史家を以て自ら任じたことも無い。唯、暫留の地が偶(たまたま)田園なりし故に耕し、偶水涯なりし故に釣つた如きものである。約めて云へばわたくしは終始ヂレッタンチスムを以て人に知られた。

森鴎外『なかじきり』


鷗外は終生、ディレッタンティズム(好事家)の姿勢を自身に言い聞かせるように貫きました。芸術や学問を「義務からではなく楽しみで」という姿勢を持とうと努め、嫡男意識や先人の義務から引き離すように試みます。そこから生まれた作品群が、結果的に世へ思想を啓蒙することになりました。そして鷗外自身、それらの執筆行為によって彼の心を救済していたと言えます。

本作『雁』は口語体で非常に読みやすい作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


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