出来ないことがやらない理由にならないように、【エッセイ】
出来ないことがやらない理由にならないように、出来ることがやる理由にはならない
さてタイトルを見て前向きな話しをするのかと思った人がいたら申し訳ないがまったく違う話しをさせてもらいたい。
やりたいことというのが特別何もない人生であった。もしくはやりたいと思ったことを想定して現実に考えて出来ないと諦めていて考えてたことすら忘れている人生だったのかもしれない。実際はわからない、でも出来ないと思ったことはそんなになかった気がする。
とそんな話しをしたところで大したエピソードがあるわけではない。
でも出来ることがやる理由にならないと思うことは何回か記憶している限りではあった。
最初にそれを思ったのは小学生の頃だった。
僕は相対的に見たら絵が上手いほうで絵を描く場面で割と活躍していたと思う。
最初のうちはそれで良かったのだ、自分の能力を人のために使えるというのはとても素晴らしいことであり、そのことに気持ちよさすら感じていた。
しかし絵を描くことが必要な場面でいつも自分が絵を描いてる。そのときの感覚でいうならば描かされているというのでも相違ない。
僕はそのとき出来ること、つまり能力での不公平さを感じた。
能力はあったほうがいい出来ないより出来たほうがいいと皆は思うのだけれど出来るということはやらなかばならないという義務が発生しているのだ。
そんなことはないと周りは言うのだろうけれどそんなことを言っても出来る人がやることになるそんな構図が世の中には溢れている。
そんなことを思った僕は出来ることを隠すようになった。言ってしまえば手を抜くことが圧倒的に増えたのだ。
今思えばあの頃からだったかもしれない。
面倒くさいとよく言うようになったのは
仕事でもそういうところはある。あの人がいるから大丈夫という言葉を聞くたび言われるたびに期待感による言葉なんだろうが鬱陶しさを感じてしまう。そしてもっというならばあの人がいなくても大丈夫なようにしとけよと不満をもってしまうのだ。
人にあまり期待しなくなったのはその頃かもしれない。
人の期待というなの重みを背負うのは持ってるかもしれんが大変なことには変わりがないのである。
人という字は支え合い出来ているとは思えずに、寄りかかりで出来ていると感じるようになった。
二十代の春の終わり、
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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