いい子でしょうか?

 人生の出会いの中で最近気付いたことである。
 私はいい子嫌いらしい。

 自分に対しての気づきあるがあるというのは面白いものでそれだけでその人に会えたことは素晴らしいことであったとすることが出来るかもしれない。
 その人に対しての描写をしていくと
 その人は気遣いが出来コミニュケーションを自ら取ることができる人である。ついでにいうと周りからいい子であると言われている。
 私の認識もその人のことはいい子であるのだけれど、ここでいい"人"と言わずいい"子"と言ったことに私がその子を嫌う理由の一端があるのかもしれない。

 まずそもそもの嫌う理由は分かりやすく言うことが出来ない。何か嫌なことをされたから嫌いになるというそういった分かりやすい話ではないからだ。
 しかし強引ながら抽象的にまとめるならば、
 デバフになるからだと言えるのかもしれない。

 ここからの話はその子は何ら悪いところのない。悪いところは全て私にあることではあるし、ついでにいうと嫌いと言う言葉よりその子を嫌っているわけではない。苦手という表現のほうが合う可能性もある。どちらにしろ悪い感覚を持っているのは変わらないのだけれど。
 
 その子のことを嫌いな理由をいうならば、
 コミニュケーションを自らとることが出来る子なのだがその話が私からするとたいそうつまらないのである。
 コミニュケーションによる話を面白い面白くないというのはよろしくない話であるのは理解しているが、問題はその子がつまらない話をすることではなくその話を聞いていてつまらなくなっていく自分が嫌いなのである。
 私の価値観の話をはさむが私は話は出来るだけ面白いように話すべきだと思っている。これは仲の良いやらのいわゆる関係値がない中で人に話を聞いてもらうには面白くなければいけないからだ。面白くなければ聞いて貰えない、ならば話す意味もないと私は思っている。
 そんな価値観を持つ私だからこそ自分がつまらなくなっていくという感覚が許せないのである。
 だからその子とは基本的に話したくない気持ちがある。

 次はその子という理由の一端である。
 そもそもその子との関係は仕事上での関係である。仕事上での関係でないならば自分の中でいなかった人物として処理をして好きとか嫌いなどの判断をすることはしなかったであろう。

 仕事上での関係で私はその子が仕事が出来ないと思っている。出来ないと断言するほど出来ないわけではないが私が理想とする働きは出来ないであろうことはこの時点で明白である。
 私の考えでどうだこうだいうことではないのは承知の上である。
 その駄目さ、いうならばポテンシャルのなさというだろうか。
 そういったものが仕事上で垣間見えるのでまた少しの苛立ちがつのる。
 全てが私の勝手による判断である。
 ついでにいい子だからそのことを苛つくのは私だけだろうし、むしろ皆はその駄目さを可愛げとして認識しているのも苛つくポイントである。

 色々言ったが、
 私が言いたいことは
 いい子でも嫌われることがあるということ。
 
 これは他のことにも言えて
 顔が良いことがいいことしかないように捉えるのは間違っているということかもしれない。
 顔が良いからと言われても自分より可愛い人は探してしまえばいくらでもいて1番になれるわけではないのだから、

 良いとされるものを持っていてやっていたとしても結局は何かで開き直らなければいけないのかもしれない。
 いい子にして嫌われてもいいと、
 私が1番可愛いと、
 そのどうしょうもない開き直りが必要なのかもしれない。

 ついでにいうと私は
 私は自分が1番可愛いという人を顔の良し悪し関係なく好きであるし、
 自分は嫌な性格をしているという人を性格の良し悪し関係なく好きである、
 いい子なだけの人は好きではないの変わらないらしい

 あなたはいい子でしょうか?
 それに意味はあるのでしょうか?


 

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