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「笑顔で官民超えて今ない何かを生み出していく!」 石原ピロコさん 〜モトヤフインタビュー〜

第33回インタビューの本日は、Yahoo!きっずのサービスマネージャーやYahoo!トップページの企画リーダーなどを歴任されヤフーに大きな足跡を残された後、現在はティールスタート株式会社の代表取締役を務められるとともに、兵庫県宝塚市CXO補佐官をはじめその他様々なお立場でご活躍中の石原弘子さんにインタビューさせていただきました。なおインタビュアーは川村のほか、石原さんをご紹介いただいたイマヤフの徳應さんにも加わって頂きました。

-本日はよろしくお願いいたします。まずお名前をフルネームで教えてください。

石原弘子です。通称「ピロコ」です。よろしくお願いいたします。(かつて元編集、イマヤフ吉田さん(=カレーさん)に命名いただいた記憶があります)

-お生まれはどちらですか、またどちらにお住まいですか。

生まれは埼玉県川越市です。その後何度か転居しましたが、現在は大田区在住です。奇しくも徳應さんと最寄り駅が同じです。

-これまでのプロフィールをご紹介ください。

大学卒業後にセガに入社しました。もっぱら未就学児向け知育ゲーム機「キッズコンピュータピコ」用ソフト企画開発に従事し「クッキングピコ」等多くのヒット作を手がけました。

その後2003年にヤフーに入社、Yahoo!きっず サービスマネージャーに就任しました。2010年の妊娠出産を経て「Yahoo!トップページ」企画リーダー、企画職向け研修開発・講師、および女性リーダー向け研修講師等を兼任します。

2014年ヤフー退職後、親子の社会課題を解決するフローレンスに転身。子育て支援施設等現場経験を経て保育士資格を取得、WEB・寄付広報の責任者になります。その後保育大手にてシステムDX推進後、2020年に独立しティールスタート株式会社を創業、代表取締役に就任。

その後ご縁あって紀尾井町戦略研究所フェロー、YELL FOR事業アドバイザー、兵庫県宝塚市CXO補佐官、フローレンス ディレクター、一般社団法人 こども宅食応援団 理事など、複数の行政・企業・団体にて、社会課題DX分野における総合的な伴走支援を行っています(2022年12月現在)。

-ヤフーの在籍期間はいつでしたか?

2003年~2014年の11年間でした。

-ヤフーに入ったきっかけは何でしたか?

まず簡単に新卒でセガに入ったきっかけもお話しします。
実は高校で演劇部に、大学で映画研究会に所属していました。いずれも演者としては鳥やオッサン役など地味なバイプレイヤー路線をひた走りつつ早々に演出側にまわり、より良いコンテンツを作ってお客さんに届けるという部分に注力する事になります。
一方で一方通行のコミュニケーションの限界に気付き、どこか物足りなさを感じていた中、絶妙なタイミングでインターネットを介したゲームが台頭し始め「ゲームの双方向性」に可能性を感じ、1995年にセガ入社。

当時大ヒットしていた未就学児向け知育ゲーム機「キッズコンピューターピコ」用ソフトウェアの企画開発に従事し、数十本のソフト企画を手がけ、いくつかのヒット作品を生み出しました。

スピルバーグ監督にプレゼンした日。巨匠が隣に…!

そんな中、ピコをネット接続するという早すぎる社命ミッションが下り、未就学児向けアバターを用いたオンラインコミュニティサービス、今で言うメタバースの先駆けに当たる「ピコタウン」を企画開発することになります。テキストだけでなくお絵描きでもチャット可能としたため、当時は斬新な仕様でした。

発売した2001年当時はテレホーダイ(早朝深夜のみネット接続が安くなる)時代で、深夜に未就学児来ないよねという分かりやすい課題を乗り越えられませんでした。時代を先読みしすぎた「ピコタウン」は商品としてはコケることになります。

一方、子ども向けに作ったはずの「ピコタウン」に夜な夜な親が集まり大人のコミュニティが活性化するという想像の斜め上の発展があり、オフ会が開催されたりユーザー同士が勝手にイベントを開催するなど想定外の進化を遂げていきました。

ゲーム機というハードウェアの限界を感じつつも、インターネットの双方向性や無限拡張するコミュニティの力に可能性を感じ、次はインターネット専業の企業に行くしかない、乗るしかないこのビッグウェーブに的発想で2003年、ヤフーへの転職を決意しました。

ヤフーは当時社員500人くらいの規模で表参道に本社があり、世間的にもまだそんなに知られておらず、親には「やほーって読むの?」と言われたりしたのもよき思い出です。

-ヤフーでのお仕事はどんな内容でしたか?

①Yahoo!きっず サービスマネージャー
入社当時の「Yahoo!きっず」はディレクトリ検索と検索窓というシンプルな1枚構成で伸び代しかない状態でした。子ども、親、学校関係者それぞれにヒアリングしまくったところ、小学校でインターネット教育の波が来ているのを感じ、まずは小学校授業での利用拡大を見据え、安全で使いやすい「子ども向け検索システム」やそれに伴うセキュリティシステムを開発しました。ホワイトリスト、ブラックリスト両方式による検索フィルタリング強化により学校やご家庭で安心して使っていただけるようになりました。

当時インターネットに対するアレルギーがまだまだ高かったため、まずは「Yahoo!きっずから検索したらあぶないサイトには絶対に飛ばない」状態を目指したのです。(今でもいくつかのエロサイトから「あなたは18歳以上ですか?」というウィザードに「いいえ」と回答するとYahoo!きっずに飛ぶ、という絶妙な仕組みが搭載されているようです。私は見たことありませんが)

並行して、文科省学習指導要領に準じた「動く図鑑」「星空」「食育」等インタラクティブな学習コンテンツを追加しつつ、子ども達の要望が高かったゲーム等エンタメ系コンテンツの拡充を進めました。まずは囲碁、将棋、リバーシといったベーシックゲームを子ども向けに移植し、ゲーム会社や教育系企業、著名キャラクターライセンサー等と組んで遊びながら学べる知育ゲームを矢継ぎ早に追加していきました。

その後株式会社ポケモン、バスキュール、ヤフーの3社合同で小学生向けのメタバース、安全なオンラインコミュニティ「ポケモンガーデン」を手がけ話題となりました。かつての「ピコタウン」失敗経験から、ネットインフラが整った今こそやるべきだと判断したものの、当時は子ども同士がネット空間でコミュニケーションできるサービス内容に慎重な意見も多く実現が危ぶまれましたが、チーム一丸で技術上のハードルのみならず大人のなりすまし問題、チャット誹謗中傷対策など課題を一つ一つクリアし、なんとか無事リリースの日を迎えました。当初の心配をよそに連日大勢の子ども達が押し寄せ大ヒット。メディアにも複数取り上げられ、開発チームがヤフースーパースター賞を受賞しました。

ポケモンガーデン

また、サンリオと共同でオリジナルキャラクター「ちょボット」を開発するなど、学びと遊びをバランスよく実装したコンテンツ拡充の結果、Yahoo!きっずは(当時)全国小学生の9割以上が利用する日本最大級のポータルサービスへと成長していきました。

なお「ちょボット」について若干触れますと、当時のヤフーはキャラクターを作ることに積極的ではなかったのですが、社内およびインク(米国ヤフー)担当者を説得し、きっずに限ってはという条件でOKをもらい実現した経緯があります。(この時オリジナルキャラクター禁止の壁を突破したことで、けんさくとえんじん等後続キャラを出しやすくなったのでは…と勝手に妄想しております)

当時のYahoo!キッズPJメンバー(一部)とちょボット。石原は後列左から2番目

②「Yahoo!トップページ」企画リーダー、企画職向け研修講師、女性社員コミュニティ「ヤフーウーマン」立ち上げ
その後社内結婚し産育休後「Yahoo!トップページ」企画リーダー、企画職向け研修開発・講師、および女性社員コミュニティ創りや女性リーダー向け研修講師等を兼任。プロジェクトマネジメントを担うPM育成にも注力するなど、プロダクトから人材育成まで幅広く活躍の場を拡げることとなりました。そういえばトップページに大喜利機能を追加しようとした事もありました。もちろんボツになりましたが。(搭載されていたら歴史が変わったかも)
…という風に言うと聞こえはいいですが、子育てと仕事の両立問題にぶつかり悩んだ時期でもありました。

-ヤフーでお仕事されていて楽しかった部分はどのような点でしょうか。また逆に苦労されたことは何でしたでしょうか。

振り返れば全てが成長の糧となっていたと思います。尊敬できる仲間と出会い、インターネットの黎明期を楽しみながら共に乗り越えていったこと。事業拡大とともにチームが劇的に成長していく激流の中にいれたこと。また、職場で尊敬できるパートナー(夫)と出会えたことも人生を変えた出来事の一つです。息子はYahoo!きっずがなかったら産まれていないので、ある種プロジェクトの成果物とも言えます。

-ヤフーで学んだことはどんなことでしたか?

たくさんありすぎて絞りづらいのですが、たとえば影山さん(編集長)は、寡黙だけど発言は本質を突く事ばかりだったなとか。喜多埜さんの総合格闘技的人間力や、井上さんの瞬時に状況を理解し次の手を打つ力など、レジェンドから学ぶ事だらけでした。宮坂さん体制での「爆速」「OPEN化」「脱皮できない蛇は死ぬ」あたりは天地がひっくり返るぐらいインパクトがあり、人は一生学び、成長し続けよという強烈なメッセージは、今でも人生の糧となっています。

退職日にデカいちょボットが来た

<ここで石原さんをご紹介頂いた特別インタビュアーの徳應さんからの質問です。>

(徳應)-シャイな日本人には見られないような石原さんのそのバイタリティにあふれた突破力の源泉って何なんでしょう?

在職中「ブレーキがないダンプカー(※1)」と呼ばれていたんですが、これは父(※2)の影響があると思います。たいそうユニークな人で、マスクの原材料である不織布を開発した研究者、且つ登山家、且つ大の手塚治虫ファン、且つ水墨画の師範でもある父の生き様が「試してなんぼ」。失敗を恐れずどんどん新しい事に挑戦する人でした。幼い私を不織布で作った巨大な凧にくくり付けて飛ばそうとしたり(結局飛ばず)、鳥人間コンテストにチームで出場したり(あおり風で逆走し珍記録達成)と、珍奇なエピソードに事欠かない環境で育った影響は大きいと思われます。

※1 今はブレーキ搭載しています。
※2 父は現在80歳ですが、今も現役で大学で研究開発を続けています。

もう一つ、辛い原体験があります。小3の時に私と一緒に交通事故にあってしまった友達の存在です。彼女は事故により意識不明のまま43才で命を終えました。お見舞いに行く度に、なぜ自分だけ助かってしまったのか、突然降りかかった不条理な出来事を消化しきれずにいました。
その後2020年に母を癌で亡くし「死期は誰も予想できない、ならば悔いなく生きよう」と強く思うようになりました。

ブレーキがないダンプカー時代

(徳應)-ところで今話題に出た影山さん(当時の石原さんの上司にあたるヤフー黎明期のレジェンド編集長、別名editer in cheap)との相性はどうだったんですか?

いや意外と相性が良かったんですよ。でも最初はコミュニケーションが難しかった。一時は転職活動をしたほどです。でもあるときにせっかく縁あって入社した会社だからと思い直し、勇気を振り絞って自分から影山さんに「何か私に伝えたいことはないですか?」と聞いたことがあったのですが、そのとき「こういうのは、こうした方がいいよ」ととても親身にアドバイスをしてくださったのです。ご本人はもう覚えていないかもですが、初めて影山さんとベクトルが合った瞬間でした。

それからは影山さんを通して会社の方向性や社会への影響など、真の意図が理解できるようになり、企画が通り始めました。自分自身も壁を超えて成長するきっかけとなりました。

ポケモンガーデン記者発表時の影山編集長。メールの口癖は「お世話様」

(徳應)-自分も影山さんの直属の部下になったことがあって、最初はプロトコルが合わないと思い込んでいたのですが、寡黙だけれど全てのことに熱心で、とてもよく勉強をされている努力の方と分かってからは、逆に自分から積極的に影山さんの思いや考え方を傘下のメンバー達に伝えていく伝道師役を果たそうと考えが変わりました。

象徴的なエピソードがあるのですが、制作本部長という立場に影山さんがなられた時、全12チームのメンバーとの懇談の席を最初に設けることになり、その席が始まるときに私が迎えに行った所、影山さんは当日のメンバー全員の社員ディレクトリを印刷して読み込んでいたんです。自分のメッセージを伝えることだけでなく相手のことを事前にしっかり理解しようとしている姿を見た事で影山さんに対する認識が変わり、プロトコルが合った瞬間でもありましたね。

-辞めたから分かるヤフーの良さというものはありますか?

めちゃくちゃあります。一つは社名の語源と言われる「ならずもの」精神でしょうか。現状の当たり前を疑い、クリティカルシンキング的視点を用いて俯瞰と仰望を行き来しながら、今ないものをチームで作り上げていく日々はとても刺激的でした。

もう一つは「人」です。手がける範囲も広くスピードも質も求められる中、集う仲間も多種多様で魅力的でした。平成の松下村塾の如くユニークな人材が集結し、それぞれの強みを活かし突き進んでいたらいくつもの山を越えていた…という感じです。同志のような関係性で今だに複数の繋がりがあり、助け合っています。

あと当時社長の井上さんはじめ、ジャズ好きな人が多かった事。ジャズはコード以外は自由だったりアドリブがあったりとアジャイルな所がITと親和性高く、また会社電話の待受音楽がジャズだったり、みんなでよく仕事終わりに南青山のブルーノート東京に行ったりと、何かとジャズが身近でした。その影響もあってサックスを始めた記憶があります。

-ネクストキャリアを選んだ決め手は何ですか?

キャリアテーマは一貫して「親子に関わる課題解決伴走」です。解決手段として人の成長支援や自律的組織開発、チームビルド、事業開発、DX等を組み合わせています。特にオン・オフライン関わらずコミュニティの力に注目しています。

実は(仕事しすぎて)結婚が遅くなり、38歳でようやく妊娠したものの血圧が216まで上がり(妊娠高血圧症候群発症)予定日2か月前に強制入院、翌日緊急帝王切開という急展開のすえ1490gの超未熟児状態で生まれた息子はNICU(新生児特定集中治療室)入院中3回危篤に。私も肺に水が溜まりMFICU(母体胎児集中治療室)に入院し時々呼吸が止まるというハードモードな経験を経て退院直後、東日本大震災というフルコンボが発生します。

(事務局注:未熟児で生まれた息子さんはとても元気な小6男子になられています)

まだいろいろおぼつかない赤子をかかえ、余震で揺れまくる家の中でシクシク泣いていたところ、これまで縁がなかった隣近所の方々に助けられ、大都会東京の端っこ大田区でも当たり前のように助け合う地域の底力を体感し、「ああ、地縁って実は生きていくためにものすごく重要なことだったんだ」という事に遅まきながら気が付きました。

これらの経験から大きく人生観が変わり、その後慶應義塾「福沢諭吉記念文明塾」に参加し、地域コミュニティ創出の一助を担おうと決め、社内ビジネスモデル勉強会のケーススタディで知ったフローレンスの門を叩いたというのがネクストキャリアのきっかけです。

-現在のお仕事は具体的にどんな内容でしょうか?

2020年に創業したティールスタート株式会社代表取締役に就任後、紀尾井町戦略研究所フェロー、YELL FOR事業アドバイザー、兵庫県宝塚市CXO補佐官、フローレンスディレクター(社外経営陣)、一般社団法人こども宅食応援団理事など、分野は多岐に渡りますが、官民超えて自律する人材による自律したチーム作りや、今ない何かを生み出す伴走支援をしています。
ちなみに宝塚市CXO補佐官には、ご縁を繋いでくださったモトヤフ宮﨑光世さんと私に加えて、最近ではイマヤフの阪上恵理さんも任用されていますよ。

(事務局注)
阪上恵理(さかうええり)さん:ヤフー株式会社CDOデータ戦略本部 部長、SR推進統括本部データディレクター
YELL FOR : 鳥取からリモートで業務アウトソーシングに対応する事業体
こども宅食応援団:地域の自治体や民間団体が「こども宅食事業」を立ち上げ自律的に運営できるよう、調査や助成、広報・啓発、ノウハウ提供といった必要な応援メニューを提供する団体

-現在の仕事の面白いところや素晴らしいところを教えて下さい。

異能・異質な人と人、企業と企業などを繋げる橋渡しの役割を担うこと。地域や分野を越境して繋げ、テクノロジーと福祉等、異質な組み合わせを繋ぐ事は新しい音楽を紡ぐジャムセッション的な魅力があります。
今もう1社、仲間とエストニアで会社立ち上げ準備中です。「おばちゃんのおせっかいをテクノロジーで実現する」がテーマです(テクノロジーの無駄使いと言われそうですが)

-今、特に力を入れていることは何ですか?(お仕事面でもプライベートでも)

仕事です。特に宝塚市CXO補佐官という官の仕事についたことで多くの気付きがありました。官民の違いは思っていたほどなく、優秀で前向きな人ばかりで、自分自身も刺激を受けています。
独立してからの仕事は厳しくも面白く、試練あれども人のご縁で仕事がどんどん拡がる中、この先どうなっていくか想像もつきません。

-ご家族以外で尊敬している方がおられたら教えて下さい。

家族はダメなんですか…笑
ダメ元でコメントしてしまいますが、まずは夫です。彼はYahoo!きっずのPJメンバー(当時エンジニア)兼ジャズドラマーで、いくつもの苦難を共に乗り越えた事がきっかけで結婚しました。今では家族としてかけがえのない存在でソウルメイトだと勝手に思っています。
(事務局注)
石原 拓(いしはら たく)さん:ヤフー株式会社 CTO室 Developer Relations 部長

当時のサ統メンバー。髪型に時代を感じる。前列左から②番目が石原、一番右端が夫↑

あとは多すぎて語りきれませんが、関わる方全てを尊敬しています。

-ご趣味は何ですか?

キャンプと読書と麺類を食べる事、たまにソプラノサックスを吹くことです。サックスは30歳過ぎてから吹き始め(いつまで経っても上手く吹けません)、現在3つ以上バンド掛け持ち状態です。ヤフー時代にもスタペ(スタートページユニット)バンド等複数のバンドに参加していました。

伝説のスタペバンド。イマヤフ西田さんはその日ヒロミ・ゴーになった

-コロナで変わったことはありますか?

地域を跨いで取引先が増えつつある中、リモートワークが当たり前になった事で複数の仕事を移動時間なくオンラインで対応できるようになった事は画期的でした。
副次的に、息子や家族との時間を犠牲にせず働けるようになった事もよい変化の一つです。
あとはもう、市場環境と人々の価値観が劇的に変わりました。

-ライフワークは何でしょうか?

「悔いなくおもしろく生きる」
(年齢で自分を制限せず、興味のあるものに臆せず挑戦して生きる)

-これからチャレンジしたいことは何ですか?

親子の社会課題解決テーマを土台に、官民連携越境者支援、おばちゃんおせっかいテクノロジー分野開拓、45歳以上の互助会的コミュニティ運営、時間銀行…あたりを手がけていこうと思っています。

-イマヤフに伝えたいメッセージをお願いします。

ならずものDNAを忘れずに、誰も見たことのない明るい未来を創り上げていってください。(PayPay超便利で好きです)

-モトヤフに伝えたいメッセージをお願いします。

ならずものDNAを忘れずに、何歳になっても挑戦し続け、たまに一緒に飲みましょう。(当方下戸ですが飲み会大好きです)

-読者に伝えたいメッセージをお願いします。

「ヘンテコでもいい、光る部分を磨くとより光る」
「過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる」
よかったら一緒に仕事しましょう

-石原さん、本日はインタビューにご対応ありがとうございました!

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------------【事務局からお知らせ】----------------

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