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どうしても正解 ―『知の体力』を読んで―

過去の私が書いた読書感想文のようなもの。

どうしても正解 ―『知の体力』を読んで―

 私は何事にも結論や理由を探してしまう性格である。自分は/彼は、結局何が言いたいのか、なぜあの行動をしたのか、なぜそれを望むのか。生きる意味を見失って自殺本を読み漁ったことすらあった。「答えのない」ものに意味はないと思っていたし、やる気が出なかった。だからこそ、正解のないものが苦手だった。例えば小論文である。以前、小論文の個別指導を受けたことがあったが、私はどう書くのが正解なのか分からず頻繁に質問していた。その度に講師の返答は「正解はない」。私は仕方なく、模範解答の形をなんとなくマネして書いた。課題で花丸をもらった時も本当にこれで「合っている」のか疑問を持っていた。しかし今、何度頼んでも「完全小論文マニュアル」を渡してくれない先生の指導方法や今回のような読書体験を経て、「答えがない」ということへのピントが合いはじめた気がしている。
 まず本作を読んで、すごい本だ、と思った。読み始めから読了まで、著者の意見に共感しどおしだったからだ。最初の「物事には必ずしも答えはない」という問題提起から、「自分が輝ける相手こそ大切」という締まりまでずっと、確かに!その通りだ!の連続だった。私がずっと抱いていた疑問や違和感への解答を、この一冊の中で悉く言葉として表していた。例えば私がラインでメッセージを送るときにいつも心のどこかで感じていたもどかしさの理由を、「同じ価値観と言葉」による「用を足すだけ」「鸚鵡返しの対話」であるのだとあっけなく言語化してくれた。これだ!あの違和感の正体はこれだったんだ!という感動を読書の中で頻りに味わった後、私はハッと我に返る。危なかった、と。
 私が本作の中でしていたのは「共感」ではなく「納得」だった。著者の理論と結論に納得していただけだったにもかかわらず、違和感を抱いた対象や着眼点が著者と一致していたために、自分の「答え」もそれであると錯覚してしまっていたのだ。私は答えを求めるあまり、自分で答えを見つけようとすることを怠っていた。自らが持っていた疑問に対する答えはこれだったのだ、と本作の中に正解を見つける読み方は「知の体力」の本質とズレていると私は思った。私は本作をまるで教科書のように、問題に対する正解を探す手段として、あまりにも受動的に読んでいた。自分の答えが文中の答えと一致していると思わずに、常に永田氏の文章と議論する。その上で、私にとっての答えを模索していく。そういった読み方こそ意義があるのではないか。正解がないとはつまり、普遍的な正解がないということだった。それぞれが自らの答えを見つけようとすることが重要なのだ。
 また、「答え」を見つけようとすることは、自分の全てを肯定することでもあった。自分にとっての答えは、他者の考えや意見か、自らの実経験によって形成される。全ての人生は、私たちに蓄積された大切な実経験なのだ。つまり、例えば、「生きる意味」を探そうとする時、鬱病で自殺を検討した瞬間や、小論文で既存の解答のマネをしようとしていた時間さえも、大切な経験として「答え」に繋がっているのである。無駄だと思っていたものにも意味が生まれるのだ。そして、答えを見つけようとする人は前向きになる。多様の考えを吸収するためにより多くの他者と関わろうとしたり、「知の体力」を今度は議論相手として読み直してみようとしたり、行動的になるからである。
 この小論文を書き始めるのは非常に大変だった。最初に結論を入れるべきだろうか、課題図書の内容にもっと言及すべきだろうか、もっと具体的にすべきだろうか。どうしても「正解」に縛られてしまう。まず私はこの他者基準の「正解」から抜け出し、自分の書きたいままに筆を進めてみることにした。後になって、この書き方は駄目だったなと反省するかもしれないが、それもまたその時の答えである。まずは自分のやり方で書き出してみることが大切なのだ。


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