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小説 手

 女の手を見ていた。
 六月十五日、十三時二十分頃、私が大学の食堂のテーブルで本を読んでいると、女が私の前の席に座った。前と言っても真正面ではなく、真正面から一つ、私から見て右側にずれた位置だった。なので、向かい合わせになった訳ではなかった。それは既に三限の講義が始まっている時間で、百二十席ほどある食堂には私と女を含めて四人しか座っていなかった。これだけ席が空いている中、なぜ、わざわざ私の前に座ったのか、少し不思議に思えた。しかし、私はそれを喜んだ。女は、綺麗だった。顔は覚えていない。私の視線は自然、女の手を追っていた。女の手は、美しかった。
 女は立ち上がって、私の後ろの方へ歩いていった。私は振り返らなかったので女が何をしに行ったのか分からなかったが、ピッという機械音と小銭の落ちる音が何回か聞こえたので、おそらく、食券を買ったのだと思う。その後、少し経って、女は席に戻ってきた。その時にトレーを持っていたので、やはり先程は食券を買っていたのだと分かった。女が買ったのはカレーだった。以前友人が、学食のカレーはレトルト食品の味がして美味しくないと話していたのを思い出した。私もここのカレーを美味しいと思ったことがないので、それには共感していた。他の多くの学生も学食のカレーがあまり美味しくないということは知っていた。女はこの食堂でカレーを頼んだことがないのだろうかと疑問に思ったが、口には出さなかった。女が食べ始める時、時刻は十三時三十五分頃になっていた。大学では十三時から三限の講義が始まり、その前には十二時二十分から四十分間の昼休みがある。既に昼休みは終わっていて、四限が始まるには早すぎるこの時間から食事を始めるのは少し不思議に思えた。しかし、これも口には出さなかった。昼休みの時間は何か作業をしていて忙しかったとか、食堂の混雑が嫌で昼休みを避けたとか、そもそもこの大学の学生ではなく、節約の為にこの安い学食を利用しているとか、いくつかの真っ当な理由が予想できたからだった。もし、何も理由が思いつかなかった場合は、口に出して、なぜ今食堂を利用しているのかについて訊いていたかもしれなかった。それは、疑問を解消したいというよりは、話しかけることによって、その女と何らかの繋がりを持ちたかったからだった。しかし、結局、訊くことはなかった。
 女は半袖のシャツを着ていた。六月も半ばになり、その日の最高気温は二十九度だった。暑いため多くの人は半袖や生地の薄い服を着ていて、女もその一人だった。女はカレーを食べ始めた。半袖だったので、白い腕がよく見えた。女はスプーンを持った。親指と人差し指と中指を使って、スプーンの柄の三点を支えた。薬指と小指は小さく謙虚に丸まっていた。女はカレーを食べ始めた。女がカレーを掬って口に運ぶたび、細い肘が曲げられる。肘を曲げると、肘の内側で前腕と上腕の肉が重なり、お互いを押しあって、少しつぶれる。押しあった肉の境目が黒い筋となり、また肘が伸ばされると、その内側の僅かなくぼみが露わになる。女はカレーを食べている。スプーンを持っている指は動かさない。カレーを掬って、口に運ぶために手首を返すたび、口に運ぶために肘を曲げるたび、腕の筋肉が滑らかに動いているのが、その清潔な白い皮膚越しに見える。女の意志によって筋肉は動かされ、筋肉の動きによって白い肌は動かされ、女の腕は形を変え続ける。ふと、私は自分の目が女の手を見続けていたことに気がついた。私は自分の喉が渇くのを感じた。
 私は本を閉じた。もう読んでいない上に、読もうとしても集中できず、視線が文章をなぞるだけで内容が頭に入らないため、本を開いている必要はないと判断したからだった。私は本を仕舞って、席を立った。喉が渇いたので、水を取りに行くためだった。ウォーターサーバーにコップを置いて、冷水のボタンを押した。勢いよく出た水がはねて、私のTシャツに不揃いの水玉模様を作った。Tシャツが濡れているのを女に見られたくないと思ったが、すぐに乾かす手段がないので、そのまま席に戻った。水がはねたのはTシャツの下の方だったので、席に座ってしまえば、女のいる角度からそれが見えることはなかった。私はコップを持ってテーブルまで戻り、コップを置いて、席に座った。その間、私は女の視線の動きを観察してみたが、こちらに視線を向けることはなく、Tシャツの水玉も見られることはなかった。
 私は喉を潤すと、やることがなくなってしまった。本を出そうと思ったが、一度鞄に仕舞った本を再び取り出すのは不自然だろうと思い、やめた。代わりに、ノートパソコンを取り出した。ノートパソコンを立ち上げ、ワードを開き、作成途中のレポートの画面を表示した。画面の右下には、日付と時刻が表示されていた。時刻は、十三時四十七分になっていた。別に、ノートパソコンで作業をする訳ではなかった。ノートパソコンを開いたのは、何かをしていないと、食堂の椅子に座り続けることを咎められる気がしたからだった。しかし、勿論、実際に何者かに注意を受けると思っている訳ではなかった。キーボードに指を置き、もしくは、頬杖をついて何かを考える仕草をして、作業している体を演じながら、私は女の手を見ていた。私が水を取りに行ったり、席に座ったり、ノートパソコンを取り出したりしている間にも、女はカレーを食べ進めていた。残り数口のカレーをスプーンで掬う前に、女はスプーンを置いた。女は、透明のコップをそっと持った。指の関節がそれぞれ少しずつ曲げられ、コップの外側に触れた。スプーンを持つときには固定されていた五つの指が今度は滑らかに動いて、コップの体を支えるように手のひらをまるく形づくった。コップを持ち上げると、前腕の筋肉に少しだけ力が入ったのが見えた。そのままコップを口元へ運び、手首を少し捻ってコップを傾け、口の中に水を入れた。女は口に入れられた水を飲み込みながら、コップをテーブルに置いて、コップから手を離した。コップは結露によって外側が濡れていて、それを持った女の指にも水がついていた。白い指は濡れて光を反射させながら再び静かにスプーンを持った。女は皿に残ったあと少ないカレーとごはんをスプーンで一箇所に集め始めた。そのかき集めるスプーンの動きは、細い手首の僅かな動きによって生まれていた。女の手は細かに動いていて、小動物のように見えた。カレーを完食すると、手はスプーンをトレーに置いて、指を離した。白い皿にはカレーのルーが筋を描いて残っていた。私はふと、女の清潔な白い皮膚が、この皿のようにカレーで汚れているのを想像した。
 女は昼食を食べ終えたので、軽く支度を整えて、席を立とうとした。席を立つ直前、女は不意に私の方を見た。その時、私も女を見ていたので、女と私は目が合った。そのまま、二秒ほど目を合わせていた。二秒経つと女は目を逸らして、立ち上がった。そして鞄とトレーを持って、私の後ろの方へ歩いていった。女がいなくなったので、私はノートパソコンでレポートの続きを書き始めた。

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