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鳩の怪談

(三十歳頃作)


 カズオは節句人形の配達から帰ったとき、店の前で一羽のハトをひき殺した。 ハトの頭はもういく日も前からぺしゃんこになっているみたいに干からびて見えた。カズオは先に用事をすますためにすぐにそこを離れた。
 店頭で客の子供の相手をしていたアルバイト店員のジュンは、子供の手をきつくにぎりながら死骸のほうへおそるおそる近づき、

「どうして」
 と、ぽつりと言った。

「ぼおっとしてたん?このハトなに見てたん」
 
 女の子はジュンの太もものへんにしがみつき、半泣きになった。
 ジュンと女の子はハトを新聞紙にくるんで店の裏の空き地の隅へ穴を掘って葬ってやった。子供の母親はけげんな顔でわが子を奇妙な店員からうばい返すと、何も買わずに去っていった。ジュンは親しげなほほえみだけ見せて、裕福そうな親子を見送った。
 
 ちょっとまえ愉快犯に足をちょん切られた一本足のハコはその朝、車のタイヤのかげから美しい光景をながめていた。危険な車道に降りてみたくなるほど、彼女にはその様子が気に入ってしまった。暮らしも心も安定しはじめていたのかもしれない。
 きゃしゃな感じの若い女の店員が気落ちした面持ちで店の外へ出てきた。そこへ三、四才のにこにこした女の子が彼女におもむろに近づくと、

「おねえちゃんや。おねえちゃんや」
 と両手をひろげてまとわりついた。
 
 たんに、店員を好きになったからである。女子店員の目は急にうるんできて、涙が落ちそうになった。誰かにさんざんしかられたのか、仕事じたいがきついのか、それともほかの理由なのか、ともかく彼女は、へんに苦しそうだった。でも、このときは、うれしさがこみあげたのである。
 女の子はくりかえし、

「おねえちゃん?」
 と呼んだ。そうして抱き上げられた。
 
 ハトのハコには、その出来事がしんみりしてしかたなかった。ふたりのいるほうにむかって不安定な一本の足でちょんちょんと近寄り、ちょうど車体の真下へ入った。そのときゆるやかに車がうしろへ動き出した。運転手のカズオはただ、もう少し歩道近くへ寄せようとしただけである。たちまち逃げそこねた片足の鳥を踏みつぶした。

 ハコの恋の相手のマサは、向かいのアーケードの上からその一部始終を目撃し、嘆いた。どうすることもできなかった。
 
 あるとき、カズオの会社にいっぷう変わった青年がアルバイト採用された。いつもうつろで、おそろしく無口だ。肌の色がさえず、死びとのような面相で、たまに、落ち込んだ小さな目を妙にぎょろつかせていることもある。仕事のおぼえがたいそう早く、たいていの作業は手本をいちど見ただけでほぼ完璧にできるようになる。履歴書どおりなら二十代の後半だが、一見したところはたちくらい、と思えばまた、奇怪なほどに年寄りじみた顔つきになって仕事場にいる一同をねめまわしたりする。そういったときは、アルバイトの仲間や直属の上司や、それどころかもっと上の管理職の偉い人たちでさえ、おじけづいたみたいにしゅんとなってしまう。
 
 こんな不思議なこともあった。
 
 商品の梱包や整理などでささくれだったパートの中年女性の指先に青年の指が静かにふれるだけで次の日にはつるつるになってしまった。なまきずも一晩で治った。二十人ほどいるうち誰がためしても同じだった。ついには内臓の病が治るなどと言い出した者も出てきた。青年の指は氷みたいにしみ入るほど冷たいけれど、あてがって一瞬の後にはもう、いやでいやでしかたなかった病根がするすると抜けていく気分になる。じっさい長年しつこくまとわりついていた持病もきれいに消え失せているのである。
 しかしこれは、ふだん、安い賃金できつい仕事を地道にやり続けている人たちに限られた。不遇や不幸といわれる人生をいさぎよく受け入れて、他人も自分もごまかさずに胸苦しい日々をふんばって送っている人だけが、その不可思議な神通力の恩恵にあずかった。
 
 青年の名前は、マサというのだ。
 
 ジュンはさいごまでマサの指に触れることをこばんだ。彼女こそ、その力を必要とすべき境遇にあるにちがいないのに、どうしても気がすすまなかった。楽になりたい気持ちはもちろん人より強くあるにしても、我が身の労苦によらぬ、いわれのない快楽はおそろしく不安だった。
 しかし、信頼を取り戻しかけて気を許した連れ合いを、たやすく踏み潰された凶暴な虚無の魔物にとって、人間のちりあくたの魂など、どうにでもおどらせて気を晴らすことができるものらしかった。
 
「君には、何か持病は、ないのですか。」
 とマサはある日、ジュンに訊いた。
 
 荷造り場にはふたりきり、ぐうぜん、かちあわせたのである。ジュンは無気味な青年から発せられたささやき声にちょっとどぎまぎして、

 「あるような、ないような」と返した。
 
 青年の寒々した視線は仕事をしている彼自身の手のほうへ落とされたままだった。

 「どなたか、君が、ぜんそくを持っていると、話していました」
 ジュンにはそんなことを他人にしゃべったおぼえはなかった。

 「死んだほうが楽だと思えるくらいの、つらい発作が、季節の変わりめごろに、ちょくちょく起こるときがありますね」
 
 ジュンは顔を赤らめ、とっさに、席をはずそうと考えた。が、いつのまにやらマサの両手が彼女の左手を包むようにやさしく押さえていた。胸が苦しく、もうどこも動かすことはできなかった。

 「君は、君を見てたハコを土に埋めたんだ」
 
 気がつくとジュンはカズオのそばに立って、夢見心地で彼にほほえみかけていた。カズオは会社の倉庫にひとりきりでいたが、ふいにアルバイト店員があらわれてにこにこしながら体を寄せてきたので、びっくりした。

 「手伝っていただきたいことがありますので、あとで屋上まで来ていただけませんか。看板の照明の時間を変えるように言われたのですが、まったく初めてですので 」

 「いいよ。それは、むりもない。またあいつか、むちゃくちゃを言いつけるのは」
 
 あいつというのは体格のごつい中年の女性で、店長級の、どえらい役目を担っている人物であろう。カズオもまた、いつも態よくいびられている弱い立場のひとりだった。

 「できなかったらできないで、またうさばらしが始まるぜ」
 ジュンは涙をため、けれど微笑しながら、下をむいた。 

 カズオが用事をすませたあと屋上に出たとき、配電盤のところにはジュンともう一人、青い顔色の青年がそばに立っていた。二人はカズオが現れたのを確かめると、それぞれが急におかしな行動をしだした。ジュンは顔を両手でかくしながらその場にうずくまってしまい、青年はあとずさりのような奇態な格好でみるみる鉄柵のほうへ近づき、後ろを向くと片方の足を胸の高さくらいまでふりあげて引っかけ、そのままそこへとびのった。
 カズオは驚いて、待てよ、と大きく声をあげた、ジュンはうめくように泣き始め、青年はもう柵の外のふちへ両手を降ろし首をうしろへ曲げて下界を見おろしていた。その顔つきはいかにもきょとんとした感じだった。カズオはすばしこい速さで駆け寄り、青年の胸ぐらをわしづかみにして、力づくでこちら側へ引き上げようと渾身の力を込めた。
 マサの体はすっと持ち上がった。が、どうじにカズオのほうもふわりと宙に浮いたごとく思えた。青年はものすごい形相になってカズオの頭を片腕で抱え込み、うなり声あげてしめあげると、ねじふせるようにして柵の外へ引きずり落とそうとした。

 「みちづれになれよ」
 
 カズオの全身には強烈なしびれが走り、悲鳴すら出すことができないほどだった。
 ジュンは自分のかたわらで起こっている出来事が、なにかまったくふつうの、ありふれた日常のことのように感じていた。それどころか二人の男が落ちてしまうのが待ち遠しくてしかたなかった。
 あたかも、自力では静めようのない重積したぜんそくの発作を、気管支拡張剤をのど奥へ吹きつけて一気に消し去るときに似た気分である。幼年の頃からはびこった苦悶の根を永遠に切り裂いて、長い快楽の余生が今やっとこんなふうにこつぜんと開こうとする。

 「そんなら、死のう」
 
 ジュンは涙をぽたぽたこぼしながら、二人がもみ合う柵のほうへよろめきよろめき、近づいていった。全身の力がなえてもうぜんぶ終わりだと思ったせつなに、逃れることのできぬ新しい仕事を、大事な人からひさびさにまた命ぜられたみたいに、五体が魂の芯にひきずられて、しぶしぶ這いあがった。カズオのへし曲がった背中をがっしりかかえこむと、死なないで、と絶叫した。
 とたんにマサは、手をぶるぶるふるわして離し、つぶされてちぢんだ家ぐものように丸くなって後ろ向きにひとりで落ちた。
 
 車道の端の、ハコが死んだ所へちょうど落ちて来たのである。
 
 

(終わり)

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