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アルゼンチンのナチス残党

アイヒマンに関する最新の本を読んでいるのですが、彼の生涯を知ることは、当時のアルゼンチンのナチス残党について知ることでもあり、なかなか興味深いです。
 アドルフ・アイヒマンはナチス親衛隊の元中佐で、ゲシュタポのユダヤ人移送局長官として数百万人のユダヤ人をアウシュヴィッツ強制収容所に移送する指揮を執った人物です。終戦後は他のナチスの大物と共にニュルンベルグ裁判の法廷に立ち、死刑判決を受けるはずだったホロコーストの責任者のひとりですが、秘密組織の援助を得てアルゼンチンに逃亡し、そこで名前を変えて家族と暮らしていました。
 ところで、南米に逃亡したナチス残党は4万人から5万人といわれており、特にアルゼンチンは彼らにとって人気の逃亡先でした。アイヒマン以外にも、アウシュヴィッツで人体実験を行った医師ヨーゼフ・メンゲレ、ポーランド人4,247人を虐殺した自衛団指揮官ルドルフ・アルフェンスレーベン、リガのゲットー(ユダヤ人居住区)でユダヤ人を迫害し、「リガの屠殺人」と呼ばれたナチス親衛隊大尉エドゥアルト・ロシュマン、イタリアでユダヤ人70名を含む一般市民335名を殺害したナチス親衛隊員エーリヒ・プリーブケなどの大量虐殺者は有名ですが、彼らはモサド(イスラエル諜報機関)に発見されることなく、自由人としてアルゼンチンで生涯を終えています(プリーブケだけは50年後にアルゼンチン政府に逮捕され、イタリアで裁判にかけられて終身刑となりましたが、85歳と高齢であったため、自宅に戻ることが許されました)。
 それにしても、なぜナチス残党はアルゼンチンを逃亡先に選んだのでしょう?その理由は下記のようになります。
①もともとドイツ移民が多く住んでいた。1853年に外国人に対して自由な政策をとる法律が施行されたため、法律改正前は5,000人だったドイツ人は1870年には4万5,000人に、1936年には24万人に増加した。
②第一次世界大戦で敗戦したドイツは貿易が制限されていたが、南米には自由に輸出が出来たため、良好な経済関係にあった。
③ナチス時代、ドイツ移民による党員2万人の「アルゼンチン・ナチス党」が結成され、戦後のナチス残党を援助した(画像参照)。
④ペロン大統領はナチスドイツから資金援助を受けていたため、親ナチスであった。
⑤ドイツ移民は莫大な資産と優れた科学技術をもたらしたため、アルゼンチン政府に歓迎された。
⑥「オデッサ」などの元SS隊員で構成された秘密組織が、イタリアのトリエステ、またはジェノヴァ経由でヨーロッパを脱出する手助けをしていたため、渡航は難しくなかった。
⑦敗戦直後の破壊と飢餓が支配していたドイツとは異なり、アルゼンチンは食糧も豊富でブエノスアイレスは文化水準も高い町だった。
 以上の理由から、ナチス幹部、党員、ナチス協力者、反共産主義者、脱走兵などがアルゼンチンを逃亡先に選んだようです。また、ナチス残党だけではなく、敗戦国ドイツに希望を見出せず、新天地を求めた科学者、技術者、経営者もいました。そういえば、『シンドラーのリスト』のオスカー・シンドラーも、戦後は一旗揚げようとアルゼンチンに移住しています。
 19世紀終わり頃から移民と外国資本の流入が増加したブエノスアイレスは、さまざまな文化の入り混じるコスモポリタンな港町となり、「南米のパリ」と呼ばれていました。着飾ってオペラハウスやタンゴホールで華やかな時を過ごせるアルゼンチンはまさに天国、連合国に追われるナチス残党でなくても、豊かなアルゼンチンに移住したいドイツ人が多かったことは理解できます。 
 ところで、アルゼンチンには多くのユダヤ人も住んでいました。19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシアのポグロム(ユダヤ人迫害)から逃れてきたユダヤ系移民が多く、例えばアルゼンチン出身の指揮者でピアニストのダニエル・バレンボイムの両親、ピアニストのマルタ・アルゲリッチの母親も東方ユダヤ系です。1933年にヒトラーが政権を掌握すると、約4万人のユダヤ人がアルゼンチンに逃げてきました。ナチス残党、しかもユダヤ人大量虐殺者と、家族や親類に犠牲者がいたかもしれないユダヤ人が、ブエノスアイレスで着飾って同じタンゴホールや劇場やカフェにいたのかもしれないと想像すると不思議ですね。月の美しい夏の夜、ブエノスアイレスの寂れた裏通りで、男と女がタンゴを踊りながら「あなたは戦争中はどこで何をしていたの?それは本名なの?」などと腹の探り合いをしていたかも、なんて妄想が止まりません。
 さて、妄想ではなく、実際に似たような事件がありました。1957年、ドイツ・ヘッセン州の検事総長フリッツ・バウアーのもとに、ブエノスアイレス在住の友人で強制収容所を生き延びたドイツ系ユダヤ人、ローター・ヘルマンから手紙が届きます。そこには、彼の娘シルビアの恋人は、どうもアドルフ・アイヒマンの長男らしいと衝撃的なタレコミが書かれていました。アウシュヴィッツ・サバイバーのユダヤ人の娘とホロコーストの責任者のひとり、アイヒマンの息子の恋。バウアーはその情報をイスラエル政府に流し、モサドが動き始め・・・。しかし、ドラマや映画にもなった、この悲しいラブストーリーも、最近では疑問視されています。歴史研究家の間では、実際にアイヒマンの居場所を突き止めたのはユダヤ人のヘルマンではなく、ブエノスアイレスに住む元ナチス親衛隊で歴史家・地質学者のゲルハルト・クランマーではないかと言われています。クランマーは熱狂的なヒトラー信奉者であり、アルゼンチンに移住後、カプリ社でアイヒマンと同時期に働いていましたが、アイヒマンの居場所をドイツとアメリカの諜報機関に密告した説が現在では有力視されています。つまり、アイヒマンは同僚に裏切られたのです。しかし、いったい何のために?懸賞金目当て?
 その後のモサドによるアイヒマン監禁とイスラエルへの移送、エルサレムでのアイヒマン裁判についても新しい情報はないか、調べています。

1938年4月10日、ブエノスアイレスのスポーツ会場「ルナパーク」でヒトラーを支持する集会に集まった
1万5000人のヒトラー支持者。

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