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アイヒマンを発見した男・ゲルハルト・クランマー

2013年3月、ドイツ人女性ジグリッド・ヴォブストは従兄弟と共にノルトライン=ヴェストファーレン州のゾーストに住む高齢の母、ローズマリー・ポールを訪ね、お茶を飲みながら古いアルバムを見ていました。ローズマリーは亡くなった夫でプロテスタントの牧師だったギゼルハー・ポールと共に、1962年にイスラエルを旅行し、マルク・シャガールに会い、ホロコースト記念館「ヤド・バシェム」を訪れたのでした。「この時代によくそんな金銭的な余裕があったね 。航空券だけでも一般人には手が出なかったはずよ」とジグリッドが言うと、母のローズマリーは驚くべき話を打ち明けたのです。
「ずっと秘密にしていたけれど、ギゼルハー(ローズマリーの夫)がアイヒマン逮捕に貢献したから、イスラエル政府が私たちを招待してくれたのよ」。
 アイヒマンが600万人のユダヤ人殺害の責任者のひとりであったことは、二人とも当然知っていましたからびっくり仰天。ローズマリーは当時のことを詳細に記憶していたため、それをまとめた本が二年前に出版されました。
 
 1926年生まれのローズマリーの夫、ギゼルハー・ポール牧師は第二次世界大戦で負傷しましたが、傷が癒えた後、ゲッティンゲン大学で神学を学び、そこで後に妻となるローズマリーと出会いました。また、同じ大学で学んでいたローズマリーの友人イルゼとその恋人ゲルハルト・クランマーとは終生の友となります。
 ゲルハルト・クランマーは1921年生まれのドイツ人で、ほとんどの若者たち同様、十代の頃はヒトラーに心酔していました。18歳でSS(ナチス親衛隊)入隊を志願しましたが、父親が結核だったために却下されています。SSに入隊するためには、①年齢23歳以下であること、②身長174cm以上であること、③祖父母は完全にアーリア人であり、ユダヤ人と混血ではないこと(階級昇格には1750年まで遡ってアーリア人であることを証明する必要がありました)、④健康であること(特に遺伝的疾患を持たない者)が条件となっており、当時は血縁者が結核であっただけで、SS入隊は失格でした。戦後、クランマーは地質学、歴史学、哲学を学び、地質学で博士号を取得しましたが、ドイツで就職先が見つからず、アルゼンチンに移住することを決意します。しかし、彼がドイツを出たかった理由は他にありました。ナチスの強制収容所が解放された直後に公開された、連合軍撮影の記録映画を映画館で見たためです。死体の山、焼却炉の遺骨、痩せ細った被収容者たち。自分がかつてSSに入隊を希望していたことを恥じ、ドイツで暮らすことが耐えられなくなったのだと、後にクランマーの娘が回想しています。こうして1949年、クランマーは妻イルゼと共にアルゼンチンに移住しました。
 
 クランマーはアルゼンチンに住みながら地質学者として世界中を旅行し、国際学会でも名が知られるようになりました。ドイツに帰国するたび、クランマー一家はポール家を訪ね、クランマーの語る冒険話を子供たちは楽しみにしていたといいます。

 1959年のある日曜日、ポール家はクランマー家に遊びに来ていました。しかし、「大人同士の大切な話があるから」と、子供たちは庭に追いやられました。ローズマリーはその時の様子を詳細に覚えていました。クランマーは自分とCAPRIの同僚たちがにこやかに笑っている一枚の写真をテーブルの上に置くと、「これがアイヒマンだ」と一人の男を指差したのです(写真参照)。

 クランマーはアルゼンチンに移住したばかりの頃、1950年に設立されたばかりのドイツの建設会社、CAPRIに就職しました。CAPRIは水力発電所建設のための水域の流速測定と岩石の採取を主な業務としていましたが、社員は400名もいるのに、なぜか測量技師の資格を持つ者はたったの40名、しかも大きな利益を上げていました。実はCAPRIの創設者は元SS将校のホルスト・カルロス・フルドナーで、社員400人のうち300名は訴追を逃れ、偽名で入国したドイツ人、しかも指名手配犯も少なくありませんでした。つまり、CAPRIはドイツとオーストリアから逃れてきたナチス残党の受け皿となっていたのです。当時の社員リストには、SS隊員、ゲシュタポ、ヒトラーユーゲント指揮官が名を連ねています。ペロン大統領はかつてナチスドイツから支援金をもらっていたことは以前も書きましたが、1946年以降、ペロン政権は国の近代化のためにナチス残党を積極的に受け入れ、保護していたため、CAPRIにはアルゼンチン政府からの受注がひっきりなしにありました。ペロン大統領が職を追われた1955年にCAPRIも倒産していますから、いかにアルゼンチン政府に依存していたかがわかります。

 ところで、ナチス残党はいわゆる「ラットライン」と呼ばれるイタリア経由のルートを辿って、アルゼンチンに逃れていました。その際に逃亡を援助したのは、ODESSA、「戦争捕虜・抑留者のための無言の援助活動」「戦友援助会」などの秘密組織、そしてカトリック教会でした。逃亡ルートにあるオーストリアとイタリアにはナチスの反共産主義イデオロギーに共感する聖職者も多く、教会内や修道院にナチス残党を匿い、保護していました。そういえばミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の中に、トラップ一家をゲシュタポから保護して匿うシーンがありましたが、現実は全く逆であったのは皮肉です。

 さて、CAPRIのクランマーの同僚に、リカルド・クレメントと名乗るドイツ人がいました。彼が世界的な捜索の対象となっているアドルフ・アイヒマンであることは、社内の誰もが知っていました。アイヒマンは、ドイツで数年間潜伏した後、1950年にラットラインを使ってアルゼンチンに逃亡したのでした。クランマーが1953年にはCAPRIを退職してからはアイヒマンに会うこともなくなっていましたが、その6年後の1959年、偶然ブエノスアイレスの郊外でアイヒマンに遭遇します。クランマーは人知れず追跡し、住居を特定することに成功したのです。

 クランマーはポール牧師に「この写真とアイヒマンの住所が『正しい人』の手に渡るようにしたいんだ。でも誰がふさわしいのかわからない。協力してくれないか。僕はこれ以上のことには関わりたくないんだ」と伝えました。CAPRIはすでに倒産していましたが、アルゼンチンのナチス残党の社交界は存在していましたから、密告という裏切り行為がどれほど危険であるか、クランマーはよく知っていました。ポール牧師自身も、センセーショナルな事件で脚光を浴びることには興味がありませんでしたから、まず自分の上司であるボンのヘルマン・クンスト司教に相談しました。クンスト司教は、これはヘッセン州の検事総長フリッツ・バウアーこそが「正しい人」であると判断し、すぐに連絡を取りました。バウアーはユダヤ人で、ナチス時代はデンマークに亡命し、戦後はドイツに戻ってモサドと連絡を取りながら、ナチハンターとなってアイヒマンの行方を追っていたことをクンスト司教は知っていました。バウアーは1957年の時点で、アルゼンチンに住むユダヤ人の友人から、すでにアイヒマンがアルゼンチンにいる情報は得ていましたが、住居まではわかっていませんでした。
 1959年11月、バウアーはすぐにポール牧師の家にやってきました。黒いリムジンが到着し、親しみやすく、身なりの良い年配の紳士がやってきたことを、当時12歳だった娘のジグリッドは覚えています。母親はコーヒーを入れると、「大人の話」があるからと、子供たちは自分たちの部屋に追いやられました。

 バウアーがポール牧師から得たアイヒマンに関する詳細な極秘情報をドイツ政府ではなくイスラエル政府に報告したのは、ドイツの政府関係者の中にもナチス残党と繋がる者が存在していたため、アイヒマンに警告を与える危険性を考慮したためです。こうして翌年、モサドはアイヒマンを拉致、監禁し、極秘のうちにイスラエルに移送することになります。

 ポール牧師はこの話を誰にも話すことはなく、子供たちにも沈黙を守ったまま亡くなりました。妻のローズマリーが亡くなる直前に娘に打ち明け、公にすることを了承しなければ、ポール牧師とクランマーの勇気ある行動は知られることはなかったわけです。クランマーも情報提供者と知られることなく亡くなり、2021年に家族が彼の役割を明らかにすることを許可したことで、初めて世に知られることとなりました。

 この二人がアイヒマン逮捕のきっかけを作ったことは事実であり、イスラエルでのアイヒマン裁判によってホロコーストの実態が初めてつまびらかにされたことになります。戦後すぐのニュルンベルク裁判とは異なり、アイヒマン裁判ではホロコーストのサバイバー111人が体験を証言し、それが世界中に報道されたことで、初めてナチスの残虐性が明らかになったのです。

CAPRI社員たち。赤丸がアドルフ・アイヒマン、その右がゲルハルト・クランマー。
(画像はSüddeutsche Zeitungからお借りしました)

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