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終戦直後のドイツの子供たち

恒例のベルリン・ライニッケンドルフ郷土史勉強会で、高齢者から思い出ばなしを伺いました。

①1940年生まれの男性
戦争は終わったけれど、私たちの遊び場は瓦礫と廃墟で危険がいっぱい、突然壁が落ちてきたりガラスの散らばるところで転んだり、怪我が絶えなかった。通り過ぎる大人たちに「危ないからそこはダメだ」とよく叱られたけれど、隠れて廃墟の中を探検するのはスリルがいっぱいでワクワクした。

②1944年生まれの女性
私はソ連統治地区に住んでいたが、よくアメリカ兵が汽車に乗っているのを見かけた。停車駅の近くの線路に他の子供たちと立って、汽車の速度がゆっくりになった時、一斉に「ギブ・ミー・チューインガム、ギブ・ミー・チューインガム!」と叫ぶと、若い米兵たちは窓を開けてニコニコしながら大量のガムをこっちに投げてくれた。みんなでそれを拾って分け合い、とても幸せだった。チューインガムは夢みたいな味がする。味がなくなっても、ずっと噛んでいた。時々、チョコレートを投げてもらえる時もあったが、大きい男の子たちがいつも取っていって、私たち小さな女の子たちはもらえなくて悲しかった。アメリカはチューインガムとチョコレートが一日中食べられる天国みたいな国なんだろうな、と憧れた。男の子たちはよく蝋燭の溶けた部分を削って口に入れ、チューインガムだと言ってクチャクチャ噛んでいた。男の子ってなんてバカなんだろうと思った。

③1941年生まれの女性
5歳くらいの頃、アルミの取っ手付きバケツを持って、牛乳屋に牛乳を買いに行かされた。男の子たちは牛乳の入ったバケツをぐるぐる回し、遠心力で落ちてこない牛乳に私は驚いた。「どうだ、こんなに速く回せるんだぞ」私も真似したら頭から牛乳をかぶり、泣きながら家に帰って母に叱られた。

④1940年生まれの男性
捕虜収容所から戻ってきた父は失業中で、毎日酒ばかり飲んでいた。父は歌がうまくて「捕虜収容所でソ連兵によく歌ってやったんだ」と酔っ払ってよくロシア民謡を歌ってくれた。私は父の歌がとても好きで、テーブルに頬杖をついて聴いたものだったけれど、母は父の歌が嫌いでいつもプンプン怒っていた。

⑤②と同じ女性
家が貧しく、いつもお腹を空かせていた。母は水に酢と砂糖を入れて、よく「レモネード」を作ってくれた。本物のレモネードを初めて飲んだ時、全く味が違うので驚いた。ニンジンとリンゴは安かったので、細かく切って酢と塩とオイルでサラダを作ってくれたが、最高に美味しかった。嫌いな食べ物なんて考えられない時代だった。今でも食べ物を残すことには罪悪感がある。

⑥③と同じ女性
母親たちは皆忙しかったので、私はよく近所の赤ちゃんを乳母車に乗せ、同じく近所の赤ちゃんを乳母車に乗せた友人と落ち合って散歩し、「お母さんごっこ」をした。「おたくのお子さん、ご機嫌ですわね」「ええ。おたくのお子さん、可愛らしい帽子ですこと」と、人形ではなく生きている赤ちゃんは最高のおもちゃだった。私たちはまだ6歳くらいだったけれど、赤ちゃんの本当の母親たちは全く心配しておらず、夕方に家に赤ちゃんを届けに行くとお小遣いをくれて感謝された。おもちゃを借りられてお金がもらえて感謝されるなんて最高だと思った。

以上です。私がアメリカ進駐軍への「ギブ・ミー・チューインガム」は日本でも全く同じだったと話すと、皆さんとても驚かれました。

貧しい時代ではありましたが、子供たちの豊富な独創力と逞しさには舌を巻きます。思い出を語る皆さんの顔は生き生きと輝いていました。

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