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東プロイセン

月曜日は恒例の「ベルリン郷土史勉強会」に行ってきました。今回はベルリンの話ではありませんが、ベルリン在住のお二人から伺ったお母さんとの旅行の話が大変興味深い内容でしたので、ご紹介したいと思います。

①男性、1952年生まれ、西ベルリン出身

母は東プロイセンのマリエンブルグ(現在のポーランド領マルボルク) の出身で、終戦直前に追放されて19歳で難民になった。ドイツ統一後に初めて母を連れてマリエンブルグを訪れたが、中世の要塞を持つマルボルク城はユネスコ世界遺産にも登録されている美しい城で、感動している私を見て母は満足している様子だった。「13世紀にドイツ騎士団がこの美しい町を作ったのに、戦後は町も、財産も、すべてポーランド人に没収されたのよ」と言って母は悲しそうだった。しかし、内部の博物館で、この町を作ったドイツ騎士団が先住民プルーセン人にどれほど残虐なことをしていたのかを知った。独自の宗教を持つプルーセン人にキリスト教への改宗を迫り、拒否した者は全員打ち首だったのだ。そのあと、城内のレストランで昼食をとったのだが、ドイツ騎士団を誇りに思う母と私は口論になった。「そんな古い話をするな」と言う母と「ドイツ騎士団は殺戮部隊じゃないか、アインザッツグルッペン(ナチスのユダヤ人殺戮特別部隊)と同じだ」と譲らない私は次第にエスカレートしていった。いやな雰囲気になったけれど、翌日には気を取り直して、車でバルト海沿岸の潟をドライブした。青い海と真っ白な砂浜を眺めながら走っている間、母はとても嬉しそうだった。しかし、たまたま通りかかったシュトゥッテンホフ強制収容所を私が見学したいと言うと、母は「あれはただの労働者用バラックで大したことないわよ」と言って、車の中で待っているという。私は母を車に残し、収容所内部をドイツ語を話すガイドと共に見学した。ただの労働者用バラックだって?とんでもない!そこは9万人のユダヤ人、ポーランド人、ソ連人捕虜が殺されたガス室のある殺戮収容所だったのだ。ガイドの説明を受けて、私は人はこうも残酷になれるのかと泣いた。真っ赤な目で車に戻ると、母は「随分待たせたわね」と機嫌が悪かった。私がここで聞いた話、殺された被収容者の話をすると、母は「私は知らされていなかったし、そんな昔の話をされても困るわ」とイライラしていた。ドイツ人がここでやっていたことを思えば、母が財産を没収されたことなんてちっぽけなことじゃないか、と言って私たちは再び大喧嘩になった。母は去年、95歳で亡くなったが、私たちはその話を蒸し返すことはしなかった。今思えば、母は難民生活も含めて、苦労続きの人生だった。生涯で唯一幸福だった時代を、息子に否定されたくなかったのかもしれない。去年からシュトゥッテンホフ強制収容所で働いていた秘書の女性(現在96歳)が1万人以上の被収容者の殺害を幇助していた疑いがあるとのことで、裁判が続いている。偶然にも、被告は母と同じ年に生まれている。そのニュースを聞くたびに、母は本当にあれが「ただの労働者用バラック」だと信じていたのだろうかと複雑な気持ちになる。

②女性、1948年生まれ、西ベルリン出身

私の母が生まれ故郷ダンツィヒ(今のポーランド領グダニスク)から引き揚げたのは、迫りくる赤軍から難民船で本土に逃れた1945年1月で、二十歳だった。それから60年後、母が80歳になったとき、「死ぬ前にもう一度生まれ故郷が見たい」と言いだした。それまでは故郷は忘れ去った過去のものだと言っていたのだが、私も母の故郷に興味があったので、車で母とダンツィヒを訪れることにした。自分の生まれ育った家を60年ぶりに見られると言って、母は興奮していた。町は戦争末期に赤軍に徹底的に破壊されたが、ポーランド人は町を忠実に復元し、昔の景観を取り戻していた。しかし、母はポーランド語に変わってしまった通りの名前に混乱し、道行く人に尋ねても、私たちはポーランド語を理解しない。町を車でぐるぐる回っているうちに、母は寡黙になっていった。ついに「こんなのはダンツィヒじゃない」と怒りだし、母を喜ばせたかった私も泣きたくなった。2時間ほど道に迷っているうちに、母が「あっ!ここよ!ここよ!」と叫んだ。そこは旧市街の片隅の石畳の細い道で、「ここで友達といつも遊んだのよ」と言って、満面の笑みを浮かべた。この道から見る教会の尖塔の位置が記憶を呼び起こしたらしい。私たちは車から降りると、その周りを散歩した。足の悪い母は杖が必要だったが、なぜかスタスタと歩き出し、実家のあったアパートの前に立った。「ここよ、ここに住んでいたの」と指をさす表札には、もちろん知らないポーランド人の名前があった。それから母と近所をゆっくり散歩し、ここに叔母が住んでいた、学校帰りにはここでよく遊んだ、ここでお菓子を内緒で買った、と嬉しそうに話し、自由都市ダンツィヒがどれほど国際的で垢ぬけた町だったかを自慢した。母は幸せそうだったが、でもどこか寂しそうだった。もしかしたら、自分の生まれ育った故郷が違う国になったことを、人生の最後に確認したかったのかもしれない。

1930年ごろのダンツィヒの町


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