エーデルヴァイスは挫けない【#シロクマ文芸部】
ありがとう、と呟き、テーブルの上の、先ほど閉じられたばかりの本の表紙を、冷えた指でなぞる。彼を見つめる私の目には、まだ、少しでも生気が宿っているだろうか。
カフェの喧騒が、一瞬にして消え失せた。私と、私の目の前にいる、彼。今、この世界に存在しているのは、私たち二人だけだ。
「それで、君はどう思う?」
彼は、テーブルの上に両肘をつき、両の手の指を組み合わせた。いつもこうだ。こんなに私のことが嫌いなのに、どうして、いつも私と行動を共にするのかが、全く分からない。
「どうって?」
「君は、ともすると、まるで、自らただの偽善者になりたがっているようにさえ、僕の目には映っているのだけれど」
「偽善者って……」
「君はどうしたいんだ? まさか、小説の中でなら何でもできるなんて、そんな馬鹿げた万能感をガソリンのように燃やして、書いているのではあるまいね?」
一番、弱い部分を突く言葉に、体が冷たくなる。
「君がしていることは偽善であり、欺瞞なんだよ」
「 違う。私の気持ちは見せかけじゃない。私は何も偽ってはいない」
無意識のうちに、膝の上で握っていた手に、力がこもる。爪が、手のひらにめり込んでいく。
「君は、君には何か特別な力が与えられているとでも、勘違いをしているのじゃないか?」
彼はにやりと笑って、組んでいた手を解き、頬杖をつく。
「いい加減気づけよ。君にできることなんて、そう多くはないさ」
彼を説き伏せることは不可能だと、最初から私は知っている。それでも、私には、どうしても譲れないことがある。
「あなたには、とても感謝している」
一瞬、彼が、怯んだように目を見開いた。
「あなたがいなければ、私はきっと、取り返しのつかないところまで、暴走してしまったはずだもの」
すっかり冷めたラテを一口すすると、喉の奥が寂しさに塗り替えられていく。彼の目を見つめた。真っすぐに。
「ひとりでなきゃ成し遂げられない、大切な目標があるの。ひとりで行かなきゃいけないの。あなた無しで。私一人で」
膝の上で結んだ手を解く。テーブルの上の本を、胸に抱いた。私の脈動が、乾いた本に吸収されていく。
「エーデルヴァイスは挫けない」
強い決意を言葉にして放つと、彼の瞳が、微かに震えた。
「君には、その本のような名著は書けないだろう?」
彼は、悲しそうに、深いため息をついた。
「君が小説の中で書いたファティマは、世界中に溢れかえっているんだよ。わかるかい?」
「君は矛盾している。ファティマは、 君のすぐそばにいるんだ。それなのに君は、ファティマ達に、指一本触れられない」
「君には何もできない。君が書いた物語は、何も変えられない。君が満足に食べて、眠っている間も、世界中のファティマ達は、死の恐怖に怯えている。それでも君が小説を書き続けるということが、どんなに愚かなことか、わかっているのかい?」
「いいかい、立夏」
彼は、私の肩を掴むと、揺さぶった。
「僕は、君のために、心の底から言っているんだ。いい加減目を覚ませよ」
私の肩を掴んだ彼の手に、静かに触れた。私の温かさが、彼に伝わる。
「私のことを気遣ってくれて、ありがとう」
彼の輪郭が、空気に溶けて、霞んでいく。
「傍にいてくれて、本当にありがとう」
「立夏。僕は……」
「解ってる。けど、行かなきゃ」
彼の体が、光の粒となって、天に昇っていく。最後に何かを言いかけた彼は、思い直したように一つ大きく笑うと、消えた。
胸に大切に抱えていた本を、彼がいなくなったテーブルに置く。誰にどう思われたって、もう、構わない。
「エーデルヴァイスは挫けない」
黎明の前。
たった一人の暗い道を、行く。
<終>
この小説は下記企画に参加させていただいております。
小牧部長、今週はなんとか書けました。
逢坂冬馬先生の、「歌われなかった海賊へ」を読了し、心を打たれ、そのままの気持ちで書いてみました。本の内容については詳しく記しません。実物を読んでいただきたいからです。
この物語に登場する人物は、私自身と、「彼」の二人だけ。
日々書いていて生じる自己矛盾について突き詰めて考えてみました。
作中で登場した作品はこちらです。
それでも、私は私にできることを続けていきたい。
「ありがとう」は魔法の呪文ですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?