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ファティマの指|春ピリカグランプリ2023個人賞受賞作|

 ファティマの左手には、薬指がない。
 何が起きたのかは、今でもわからない。

 此処は、ファティマが生まれた大地だ。ザックの中に、ファティマの遺骨を背負い、瓦礫の街を歩く。遠くには、美しい山河。地獄は、天国の中にある。

 キャンプ地に辿り着くと、世界中から集まった医療スタッフたちが、眩しい笑顔で迎えてくれた。様々な色の肌、瞳、髪。それぞれが皆、美しい。私を「ガイジン」と呼ぶ人は、此処にはいないだろう。手を振って、呟いた。

「ファティマ。指を探しに来たよ」

 息を吸い込み、瞳を閉じる。乾いた太陽が、瞼を焼く。

 ファティマが、戦火を逃れて日本に辿り着いた時、私はすでに、彼女の胎内に着床していた。二十歳にも満たないファティマは、私を産み、「サクラ」と名付けた。桜の花を愛する日本の人々が、私を愛してくれるようにと。

 今でも覚えている。小学校三年の授業参観の日、同じクラスの男の子が、ファティマの左手を指さしたことを。

『どうして指がないの?』
『そんなこと聞いちゃ駄目!』

 母親は、ファティマの目の前で囁いた。悔しくて、涙が出た。瞼をぎゅっと閉じ、歯を食いしばっても、嗚咽が止まらない。ファティマは、地面に膝をつき、あたたかな左手で、私の背をさすってくれた。ファティマが着ていた白い民族衣装が、ふわりと風を含んだ。

『大丈夫。私にはわかるわ。サクラが、誰よりも優しいってことが』
『私が、ファティマの指を探しに行く!』

 ファティマは、困ったように笑った。しゃくりあげながら、ファティマの左手を握った私に、ファティマは、私が大好きな「虹の彼方に」を歌ってくれた。地面に膝をついたまま、子守歌のように。

『虹の彼方には、何があるの?』
『頂上が白い雪で覆われた、高い高い山と、青く輝く、大きな川があるの。野生のトラだっているのよ。けれど、虹の向こうには、行けないの』
『どうして?』

 その刹那、ファティマの瞳が震えた。漆黒の瞳孔を、琥珀と緑柱石が混じったような、不思議な色が取り囲んでいた。宝石のような瞳から、涙があふれ出したとき、解った。

 ファティマの指は、今も故郷にあるのだと。

 ファティマの命が尽きた時、私は傍にいられなかった。台所で倒れていたファティマの左手を握った。薬指のない、大好きな手は、私の手を握り返してはこなかった。病院で、ファティマの心臓が、限界を超えていたことを知った。私が、気づいていれば。窓の外を見ると、満開の桜が、音もなく散っていた。高校生になったその日、私は、医師になることを決意した。

「ドクター・サクラ! 早速診てもらいたい患者が」

 現実に戻り、目を見開く。その若い看護師は、ファティマと同じ、白い民族衣装を纏っている。懐かしい、宝石のような瞳。視界が、涙で乱反射する。

「ドクター・サクラ?」
「平気。患者はどこ?」

 涙を拭う。
 走らなければ。
 この国の人々が、もう、指を失わずに済むように。


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