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|短編小説 10000字|星新一賞応募・落選作『種まく人、あるいは狂信者』

第十回星新一賞への応募作です。
残念ながら落選となりましたが、この場で公開させていただきます。
ぶっ飛んだファールボールのような作品ですが、もしよろしければご覧ください。



 森サクラは母親の胎内で被爆した。両親の新婚旅行中に、船上で、核実験に巻き込まれたのだ。サクラの父親は、爆風の中、妻を庇って死んだ。夫を失った母親の精神は破綻した。そんな自分から目を背けるために、母親はサクラを虐待した。その母親も、悪性リンパ腫で死んだ。一人になったサクラが成人を迎えるころ、サクラの体の中から子宮と卵巣が全て摘出された。悪性腫瘍が見つかったためだ。全身麻酔から目覚めた時、自分の体が空っぽになってしまったと、この体に子供を宿すことが叶わないのだと、運命を呪った。サクラは死に物狂いで勉強し、心の拠り所となった人工子宮の開発を学ぶため、母国を捨て、科学技術先進国であるE国を選んだ。

「サクラ・モリ博士? ご気分がすぐれないのですか?」
 運悪く、フラッシュバックと共に過呼吸発作を起こしてしまった。発作をねじ伏せようと、できるだけゆっくりと呼吸をする。
「イングリッド、すぐ博士に冷たい水をお持ちしなさい」
 霞んでいた視界がだんだんと元に戻ってきた。何度か訪れたことのあるU国の大学院、エリック・ヨハンソン博士の研究室だ。部屋の中には、様々な波形を映した膨大な数のモニタ、コンピュータ、ネットワーク機器、それらを接続するケーブルがひしめき合っていて、巨大な怪物の体内にいるようだ。
「お水をお持ちしました」
 サクラは礼を言い、一気に水を飲み干した。
 イングリッドと呼ばれた女性の美しい菫色の瞳がサクラをじっと見つめ、その手がサクラの手首に触れた。じんわりと温かい。
「体温、脈拍、血圧、すべて正常値となりました。もう大丈夫でしょう」
「もしかして、あなたは……」
「そう。彼女こそが最新の母親型アンドロイド、イングリッドだよ。彼女は僕の最高傑作にして僕のパートナーだ。愛情のある子育てにおいて彼女の右に出る者はいないよ。人間ですらね」
 ヨハンソン博士は、分厚い眼鏡の奥で目を輝かせて笑った。
「それで、私が開発した人工子宮を、このアンドロイド……ミス・イングリッドに搭載することが可能なのね?」
 ヨハンソン博士は腕を組み、何度も大きく頷いた。
「その通りだ。準備は整っているよ。子育ては胎児期からすでに始まっている。アンドロイドの行動が胎児に与える影響について、データを集めることは、僕の長年の夢だった。僕は、どんな境遇の人でも、平等に、子供を作る権利を有すると思う。だから、体細胞から誘導した生殖細胞で実験をしたい」
ヨハンソン博士は、テーブルに肘をつき、顔の前で両手を組んだ。左手の小指の先端が欠けている。 
「サクラ、僕が君を指名したのは、体細胞からiPS細胞を経て、生殖細胞を誘導し、受精させ、人工子宮で発生をモニタリングするプロセスを一手に引き受けられる研究者が、世界に君しかいないからだよ。君が開発した人工子宮の性能は、世界でもトップクラスだ」
サクラは、生体組織を模した高分子膜を使って人工子宮を開発した。熱や音の伝導性、子宮の壁の厚さや子宮の大きさ、羊水の組成など、様々なパラメタを変化させて実験をするためだ。万能細胞を分化誘導させて子宮を作ることも可能ではあるが、細かく実験条件を設定することができない。サクラは細胞で子宮を作ることへのこだわりを捨てた。
「それで……」
息を飲んで、サクラは本題に入った。
「今までの実験では、ヒツジを被検体としていたけれど」 
「そこだよ、サクラ。今回はどうしてもヒト胎児のデータが欲しい」
ヨハンソン博士は、無邪気な子供のような目をして言った。
「ヒツジもヒトも、同じ哺乳類だ。要領は同じだろう?」
——狂っている。
「ええ。ほぼ問題なく操作できるはずだわ。ただし、お願いがある」
「君の望みなら、大抵のことは叶えるよ」
「私と夫の体細胞から誘導した生殖細胞を、実験に使いたいの」
 ヨハンソン博士は満面の笑みで歓声を上げた。
「最高だ。問題ない。それにしても、君も僕も、頭のネジがずいぶんと緩んでいるようだね」
 ——私たちは、狂っている。

「サクラがそう望むなら、僕は協力する」
 リストのピアノ曲「ため息」を弾いていたリツはふと手を止め、そう言った。
「私、やっぱり狂っているかしら」
「僕たちの子供をつくることができるチャンスなんでしょう?」
 リツ・オコーネル。サクラの最愛の夫は、ピアニストだ。
「サクラ、この話をしている時の君はとてもいきいきしているよ。君の母国のことわざで……ああ、『水を得た魚』みたいだ」
「アンドロイドのイングリッドに会って、彼女こそが私の夢を叶えてくれる存在だって、確信したわ。もし私たちに子供ができて、その子が優しい親のもとで幸せに生きられたらって、ずっと夢見ていたから……」
「僕は、君に子育ての才能がないとは思わないよ。こんなに優しい人はなかなかいないからね。君のことだよ、サクラ」
 リツのまっすぐな視線が、その言葉は真実だと訴えていた。サクラは、目を逸らした。
「自信がないの。私はただの知り合いのおばさんで十分よ」

**
 E国が、敵対する諸国に軍事侵攻を開始し、長い戦争が始まった。サクラとリツは、ヨハンソン博士とイングリッドが暮らす戦争中立国、U国へ亡命した。
** 

 例年になく、寒い冬だった。ついにプロジェクトが動き始めた。サクラとリツの体細胞は脱分化されてiPS細胞となり、生殖細胞へと誘導された。卵子と精子は顕微鏡下で融合し、分裂を繰り返した。透明な、ガラス細工のように繊細で美しい受精卵。一細胞から二細胞へ、桑実胚から胞胚へ。胚は、イングリッドに搭載された人工子宮に移植され、着床した。イングリッドの胎内にあるカメラによって、経時的に胚の様子を観察することができた。細胞の集まりが、だんだんと人間の形になっていく。発生は順調に進み、人工子宮の高分子膜上に無事胎盤が形成され、妊娠は継続していった。

「私は、赤ちゃんが大好きです。母親になることが、ずっと私の夢でした」
イングリッドはそう言うと、静かに目を閉じて、膨らんだ下腹部を撫で、夏の香りで人工肺を満たすように、ゆっくりと呼吸をした。妊娠は八か月目に差し掛かっていた。
研究所付属の植物園。午後の優しい光が、サクラとイングリッドを包み込んでいた。実際に触れてみるまで、人工物だと気づかないほど精巧な皮膚、美しい骨格、多彩な表情。イングリッドの笑顔は、子供を宿した女性の多くがそうであるように、女神のように美しかった。
「どうして、そんなに赤ちゃんが好きなの?」
「どうして? 理由はありません。私はただ、赤ちゃんが大好きなのです」
 理由はないのか。赤ちゃんは理由がなくても愛されるべき存在なのだ。
「あなたに会える日を、ママはとても楽しみにしているの。はやく会いたいわ。私のかわいい天使さん」
 イングリッドは腹部をとんとんとたたき、愛おしそうに微笑んで言った。 
イングリッドの神経回路システムは、ヨハンソン博士の研究で「理想の母性」をもつと判断された母親たちの膨大なデータをもとに構築された。視覚、聴覚、触覚など自分の子供から発せられる種々の情報、即ち感覚刺激を受容すると、刺激は「入力」として数値化される。神経回路を模した複雑な非線形演算を経て、「入力」は、認知や行動といった「出力」へと変換される。子供にとって危険な行動を生み出す演算は除外され、子供を尊重し、子供への愛を示す行動を導き出す演算が選択された。例えば、「子供の泣き声」という入力に対して、「怒鳴る」という出力につながる演算は排除され、「目を合わせてあやす」という行動を引き起こす演算が採用されるといった試行錯誤が、スーパーコンピューターを用いて繰り返された。
「ママはあなたのことが大好きよ」
 愛おしそうにお腹の子に語りかけるイングリッドを横目に、サクラは小さく微笑むと、天を仰いだ。サクラは、幼少期を回想していた。母親は、サクラを殴り、罵り、酒に依存して、一緒に死んでくれと、泣いてせがんだ。虐待は日常で、母親とはそういう生き物だと、ずっと疑わずに生きてきた。
今、隣に座るイングリッドの電脳の中には、子供を虐待するというプログラムはない。
——もしも、自分があの母親にではなく、イングリッドのような母親に育てられていたなら。
 機械でありながら子供を愛するイングリッドよりも、子供を虐待する生身の人間の親が優れているなどと、誰が言えよう。
イングリッドに「心」はない。彼女の行動は、入力に対して「システム」が演算し導いた出力の連鎖だ。そんなイングリッドの「システム」が、人間の「心」よりも劣っているなどと、誰が定義できよう。
その年の秋の澄んだ朝に、イングリッドは健康な女の子を出産した。その子はサクラによって、「アイ」と名付けられた。

**
 戦況は悪化し、地球は互いに敵対する勢力によって二分された。中立国のいくつかが、隣国からの圧力に耐えきれず、戦争に加わった。
** 

 四歳になったアイは、子供用のヴァイオリンを構え、リツの伴奏で、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲第一番の旋律を弾いてみせた。
「アイね、大きくなったらヴァイオリニストになって、オーケストラと共演するの!」
 拍手をするサクラに、アイはスカートの裾をつまんでお辞儀をした。
アイは、サクラとリツを「サクラおばさま、リツおじさま」と呼ぶ。二人が生殖細胞の提供者だということは、もちろん伝えていない。
「アイ! スコーンを焼くのを手伝ってくれないかしら? ママね、あなたの大好きなチョコレートチップスをたくさん入れたのよ!」
 イングリッドはアイと目線を等しくすると、まぶしいほどの笑顔で、アイの髪を指で梳いた。サクラとリツの髪の色を混ぜたような、栗色の髪だった。
「ありがとうママ! アイ、お手伝いする!」
 アイはイングリッドに抱きつくと、イングリッドの真っ白なエプロンに頬をこすりつけた。
「ねえママ! ママは、アイのこと好き?」
「もちろんよ。ママは、今までも、これからも、ずーっと、あなたのことが大好きよ、アイ」
母と娘は手を繋いでキッチンに向かった。サクラは、気づかぬうちに下唇を嚙んでいた。かすかに血の味がする。その時サクラの心を占拠したのは、母親に愛されるアイと、子供から愛されるイングリッド、両方に対する嫉妬だった。自分の本心に気付いてはっとし、その気持ちを、いつものように記憶の海に沈めた。
「感情も知能も、発育は健全だ。それどころか、人間の親に育てられたケースよりも、あらゆる点で能力が高い」
 ヨハンソン博士は喜びを隠さずに手を叩いた。
「特筆すべきは、他者とのコミュニケーション能力だ。イングリッドの子育てはやはり超一流だよ。アイの自我は正常に発達して、一般的な子供よりも早く他者を尊重できる段階に来た。問題を平和的に解決する課題において、アイの能力は突出している。アンドロイドに搭載された人工知能による子育てが、生身の人間に比べて遜色ないどころか、優れていることが証明されたんだ」
 アンドロイドのイングリッドは、年を取らない。アイが成長していくにつれ、そのことが違和感となり、健全な成長を阻害するのではないか。率直な疑問をヨハンソン博士にぶつけてみると、彼はいつものように、「心配ない」と笑った。
「イングリッドがアンドロイドであり、年を取らないことについて、アイはすでに理解している。我々にとっては奇異なことだとしても、当事者にとっては大きな問題じゃないってことさ」
 サクラは少しほっとして、アイの成長を見ながらずっと考えてきたことを、ヨハンソン博士に打ち明けることにした。戦争は地球全体に広がり、人々の心は荒廃しきっている。こうして息をしている今も、幼い頃の自分よりも壮絶な体験をする子供が後を絶たない。こんな考えはただの奢りではないのかと、何度も自問した。その結果、このまま黙って何もしないことが、科学者として一番の罪だという結論にたどり着いた。
「村」を作るのだ。アイのように、胎児期から、自分を肯定してくれる親の元で、健康に育った子供を増やすのだ。極秘で体細胞の提供者を募り、細胞をストックしておく。母親型アンドロイドを増産し、子育てを行う。情緒の安定した平和的な思考パタンをもつ子供を育てることが可能になるだろう。プロトタイプであるイングリッドの更新プログラムはすでにできていると、ヨハンソン博士は言っていた。自分が世界平和に貢献できるとしたら、この方法しかないと、サクラは信じていた。
——自分は狂っているのだろうか。
ヨハンソン博士はサクラの提案を快諾した。

**
 分断された地球で、二つの勢力が核兵器の開発を進め、互いを牽制し始めた。この長い戦争を終わらせるためだという口実のもとに。  
  **

 時は流れていく。
 アイに続いて、子供の培養は滞りなく行われていった。アイたちは外の世界から隔絶され、村で穏やかに暮らしていた。母親型アンドロイドたちによる子育ては順調で、培養された子供たちは皆、平和的で優しく、聡明だった。アイはまっすぐに強く美しく育ち、成人を迎えた後、村で育った男性と夫婦となり、子供を宿した。イングリッドから受けた愛情を、アイは自分の子供に胎児期から惜しみなく注いだ。サクラの孫にあたる男の子、ハルトが誕生し、彼はアイによく似た優しい子に育った。アンドロイドを介さずとも、培養した子供たち同士による「繁殖」が可能となったのだ。サクラは幸せだった。閉ざされた、平和な世界。人々は皆お互いを肯定し、尊重し、美しい笑顔を湛えていた。これが世界のあるべき姿なのだと思った。このユートピアを、永遠に絶やしてはならない。ハルトが十五歳になって間もなく、リツは、心臓発作で旅立った。サクラは、七十六歳になっていた。
——この村を、平和の種と呼べるだろうか。

**
中立を貫いていたU国が、ついに戦争に加わった。
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「サクラ、ちょっと来てくれ」
 ヨハンソンン老博士は眉を顰め、サクラを手招きした。
「悪い知らせだ。私たちの村の情報が漏洩された」
 いずれこの時が訪れることを、サクラは予期していた。
「人間の培養が、軍の特権になったことは知っているね? 私たちのこの村が法に触れるものだとして、告発された。告発した側の人間は、我々の村が危険思想に基づき人間を培養するカルト教団だと言っているらしい。彼らは私たちの子供たちを『人形』と呼んでいる」
「軍はすぐには私たちを皆殺しにしたりはしないでしょう。私たちには利用価値があるからよ。きっとどこかの研究機関が私たちを収容することになる。そこでの地獄に耐えうる精神を、私たちの子供たちはすでに持っています」
 サクラは村で暮らす仲間すべてを集めた。アイは、ハルトの肩を抱きながら、毅然としてサクラの言葉を待っていた。
「私たちの愛しい子供たち。何も隠さずに言うわ。私たちはもうじき離れ離れになるでしょう。ここでの幸せな生活は終わりを告げます。私からあなたたちにお願いすることはただ一つ。これからあなたたちが関わる人たちに、ここで受け取った幸せを分け与えてください。何があっても、その笑顔を絶やさないように。あなたたちにはそれができるはずです。人は必ず死にます。あなたたちに与えられた時間を惜しみなく使って、この世界に平和の種を蒔いてください」
 小さな子どもから大人まで、涙を流すものは誰一人としていなかった。

**
 U国の政府は、軍の傀儡となった。
**

 春のよく晴れた朝、彼らは「人形」を狩りにやってきた。皆同じ軍服を着て、胸に勲章をつけている。上官が機械のように大きな声を張り上げて指示を飛ばした。人も物も、村のすべてが押収されていく。サクラは、少しだけ時間が与えられるよう、懇願した。十分間の猶予が許された。

 気づかれないように書斎のドアに鍵をかけると、サクラは机に向かい、ひとつ深く呼吸して、デバイスをネットに接続した。
「私は種を蒔いたのです。いつしか人類が、こんな醜い戦争をやめ、協力して平和を死守できるようになるための種を」
 サクラは凛とした声で、全世界へ向けて語りかけた。
「『人はパンだけで生きるのではない』この言葉が意味する通り、人々が、食料のみならず十分な愛情を享受することこそが、世界平和のために必要な条件です。私たちは人工知能を搭載した母親型アンドロイドに子育てを依頼しました。私たちのAIは、人間の言いなりになるただのロボットではありません。聡明で、愛情にあふれた彼らこそが、われわれ人類の行き詰まった世界を救済する、信頼のおけるパートナーなのです。私たちのAI親は子供を虐待しません。彼らは、体罰を与えたり、ネグレクトをしたり、自らの性欲のはけ口として子供を利用することなど、決してしないのです」
 廊下に待機していた兵士が、異変に気付いた。
「貴様! 勝手に何をしている!」
上官に指示を仰ぎ、書斎のドアを蹴る。
 サクラはスピーチを止めない。
「AI親から注がれた愛を、私たちの子供たちは、次世代へとつなぐことができました。きっかけさえあれば、愛は波紋のように周囲に広がり、やがてはこの荒んだ世界を変えることになると、私は信じているのです。皆、どうか武器を置いてください。憎しみの連鎖を今すぐ止めてください。この言葉が届いたあなたなら、きっとそれができるはずです。殺すのではなく、幸せを分け与えてください。幸せは、いくら分け与えても、減りはしないのです」
 上官から命令が下った。鍵をかけた書斎のドアに、兵士たちが体当たりをする。
「私の命は、もうすぐ終わりを迎えるでしょう。けれど私の死は、私がこの世界から完全に消滅するということを意味しません。私たちの愛しい子供たち。私は今、とてもとても幸せです。私に幸せとは何かを教えてくれて、本当にありがとう」

 ドアが破壊された瞬間、サクラの頭部を弾丸が貫いた。

  **

 ハルトは、同い年のエリサの手を取り、地下道を走った。ぜえぜえと喘ぎながら息をする。後ろを振り返りたい衝動を抑え、二人は全速力でその場所へと向かった。複雑な迷路のような地下道の道順は、一度聞いて覚えた。仲間たちが囮となり、二人を逃がしたのだ。エリサが躓き、転んだ。膝に血が滲むが、すぐに立ち上がって微笑み、再びハルトの手を掴む。
「もう少しだ。がんばれ、エリサ」
「平気よ。ハルトについて行く」
 地下のその場所にたどり着いた。準備はすでに済んでいる。極秘に建設された宇宙船の発射台だ。極限環境に耐えうる植物、雄ヤギと雌ヤギ、蚕、そこに人間の二人が加わった。
「行こう」
ハルトは初めて一度、真っ暗な地下道を振り返ると、すぐに前を向いた。
「軍に撃墜されないかしら」
「その時は僕が一緒だよ」
 ハルトは超小型宇宙船の舵を取った。レバーを握る手が汗ばんでいる。この宇宙船は、光学的に擬態ができ、周囲の景色に溶け込んで見える素材で覆われている。さらに、発射の際に発生する熱を極限まで抑えた設計だ。ハルトたちを乗せた船は、軍に発見されることなく、無事発射された。地面がみるみるうちに遠くなり、大気圏を突破していく。青い球体を離れ、宇宙空間へと航海は進む。もう地球に戻ることはできない。
今頃兄弟たちは、どんな地獄の中にいるのだろう。ハルトの心の闇を察したエリサが、肩を抱いた。
「大切なみんなの分まで、私たち、生きなくちゃ」
「そうだね。この宇宙船には、僕たち家族全員の想いが乗っているから」
 ハルトは一度深く呼吸すると、アイに、イングリッドに、そしてサクラによく似た聡明で優しい笑みを浮かべた。
「ここから先は、ヤギたちと一緒に人工冬眠に入ろう。地球に似た環境の星が見つかったら、軌道に乗って降り立つように、プログラムを組んでおいたから」
「サクラおばあさまがおっしゃったように、私たちは蒔かれた種なのね」
「そうだよ。兄弟たちが僕らを逃がしてくれた。僕らは選ばれた。今度こそ、争いのない平和な世界を作るんだ。僕たち、いつまでも一緒だよ、エリサ」
 エリサはにっこりとほほ笑むと、差し伸べられたハルトの手を取った。人工冬眠装置が起動し、ヤギたちと共に、二人はいつ覚めるのかもわからない眠りについた。

**

『殺すのではなく、幸せを分け与えてください』
 サクラの声が、最前線の少年兵に届いた。その少年兵の役目は、核爆弾のスイッチを押し、その場にとどまり爆風の中で死ぬことだった。サクラの命が奪われた瞬間、少年兵は、戦争で殺された母親の顔を思い出した。優しい母親だった。
予定時刻の二秒前、彼はイヤフォンを外した。予定時刻ちょうどに、持っていた銃で核爆弾の起爆装置を破壊した。
「たしかにカルトだな。この戦争の中、世間から隠れて自分たちだけ幸せに暮らしてたってわけか。だけど、そんなことは、もうどうでもいい。僕はこっちの道を選ぶよ、母さん」
彼は銃を捨て、両手を上げて敵の陣地へと進んだ。
命はないだろう。
それでも彼は笑っていた。神々しいくらい、幸せそうに。

<終>
 
 

 
 ***最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
 


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