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水底の古城【短編小説】



 海辺の助産院で、メイは男の子を産んだ。夜通しの出産を終えて、やっとひと眠りできそうだ。隣では、生まれたばかりの赤ちゃんが、すうすうと寝息を立てている。これを幸せと呼ぶのだ。やっと会えた、大切な赤ちゃん。

 うとうととしながら、ふと窓の外を見ると、鈍色の大きなドラゴンが、翼を広げて、海の上を旋回していた。驚いたが、出産の疲れが出たのだ、もうこれは夢の始まりなのだ、と思うことにした。直後、電源が切れたように、メイは、深い眠りに落ちていった。

 目を覚ますと、隣に寝ていたはずの赤ちゃんがいない。はっとして起き上がろうとし、異変に気付いた。お腹が、膨らんでいた。何かが動く感覚がある。


 ——どういうこと?


 パニックを起こし、ナースコールを押したとき、窓の外が目に入った。ドラゴンは、まだ海の上を旋回していた。

「メイさん、どうしました?」

 ベテラン助産師、フサエさんが、華奢な体で走りながらやってきた。メイの姿を見ると、一瞬で目つきが厳しくなる。

「あっ、あの……産んだばかりの赤ちゃんが、おなかの中に戻ってしまったみたいで……」

 フサエさんは、慌てる様子もなく、メイの瞳を覗き込んだ。

「今、ドラゴンが見えるんじゃない? あなたで三人目。産んだばかりの赤ちゃんが、お腹に戻ってしまったのはね。前の二人も、海の上をドラゴンが飛んでいたって、言っていたの」




 光のない世界。赤ちゃんは、温かい羊水の中で、すいすいと泳いでみせた。

「ママは、ぼくのことを『ナオキ』って呼んだんだ。まっすぐな、『き』みたいな人になってほしいんだって。だけど、『き』って、 何のことかなあ」

 すぐ近くで、こぽこぽと音がする。『小さきもの』がくるりと回った。

「名前をもらえるなんて、すごいことじゃないか。それで、どうだった? 外の世界は」

「『光』があったよ。まだ目は開けられなかったけれど、とてもまぶしかった」

「ふうん。でも、どうして、きみはここに帰ってきたんだい?」

『小さきもの』がそう問いかけると、赤ちゃんは、ふふ、と笑った。





 大きなお腹を抱えて、メイは海岸線を歩いていた。体に障らない程度でなら、散歩をしてもいいと言われていた。出産後はもういらないと思っていたワンピースに、再び袖を通すことになろうとは。メイの柔らかくウエーブした栗色の髪が、海風に吹かれて乱れる。

 あれから三日経つ。朝日とともに、ドラゴンは、海の中から姿を現し、小一時間ほど上空を旋回しては、また海へと帰っていった。

 ドラゴンに聞いてみたいことがあった。メイは、危険を承知で防波堤に登り、声を張り上げた。

「あなた、知っているんでしょう? 私の赤ちゃんは、どうしておなかに戻ってしまったの?」

 すると、旋回していたドラゴンが、メイと目を合わせた。次の瞬間、ドラゴンは、防波堤までひと息に飛んでくると、翼をたたんで、メイの前に止まった。ひゅうう、と、鋭い牙から漏れる息づかいが聞こえる。

——背中に乗れ

 ドラゴンは、ルビーのように紅い瞳で、合図した。

 メイは、おそるおそるドラゴンの背に乗った。ドラゴンは、勢いよく空へ舞い上がると、大きな円を描くように、空を旋回し始めた。

 気が付いたのは、それからしばらく経ったころだった。お腹が、どんどん小さくなっていった。メイの顔から、血の気が引いていく。

「教えて! 何がいけなかったの?」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、メイはお腹の中にいる赤ちゃんに向かって叫んだ。

「私が独身だから? あなたのお父さんが他の女の人のところに行ってしまったから? あなたがおなかの中にいるのに、毎日ずっと仕事ばかりしていたから? いつも疲れて体に悪いものばかりたべていたから? それとも……」

「あなたがいるってわかった時、本当は、あなたを望んでいなかったから?」

 言葉にしたとたん、取り返しのつかないことをしたと、胸が激しく疼いた。

「ごめんなさい! でも私、あなたを産んで、やっと生きていく覚悟ができたの! 本当よ! だからお願い、いなくなったりしないで!」




 どんどん小さくなっていく赤ちゃんは、こぽこぽと息を吐いた。母親のメイの声は、すべて聞こえていた。

「ぼくなんかいない方がいいなんて、ママがもしそう思っても、平気さ。きみがいるなら」

『小さきもの』は息をのみ込んだ。ややあって、そっと赤ちゃんの手に触れると、静かに言った。 

「きみは生まれるべきだ。ぼくがいなくなっても」

 赤ちゃんは、首を横に振った。

「いやだよ。きみはママのおなかのそとにはいけないんだろう? そとのせかいで、ぼくひとりで生きて行けなんて、そんな悲しいこといわないで。ぼくたち、いつも一緒じゃないか」




 メイは、いっそう強くドラゴンにしがみつきながら叫んだ。

「この子は何を望んでいるの? 教えて!」

 ドラゴンは一瞬、空中でホバリングすると、ちらりとメイを振り返った。次の瞬間、急降下し、ドラゴンは、メイを乗せたまま海の中へと飛び込んだ。



 息をしなくても、苦しくなることはなかった。水の中なのに、ドラゴンが吹いた炎があたり一面に燃え移って、周囲をぼんやりと照らしだしている。

 不思議な世界だ。西洋の遺跡のような、崩れかかった古城。揺らめきながらパチパチと爆ぜる炎が、宮殿の中央にある玉座に光と影を与える。薄暗くてよく見えないが、誰かが座している。

「ようこそ、ぼくたちの宮殿へ。近くへ来て」

 そう言われて、メイは泳いで玉座へ近づいた。水をかくたびに、温かく心地よい。

 近づいて『彼』を見る。頭が魚で、胴体は人間の子供だった。

「なぞなぞ、解ける?」

 唐突な問いにメイが首をかしげると、『彼』は嬉しそうに話し始めた。

「はじめは一つで、今は大きいのと小さいのが一つずつ。なーんだ?」

 メイが何も答えられないでいると、『彼』は再び口を開いた。

「あのドラゴンは僕が飼っているんだ。わかっていると思うけど、君の時間も、もうずいぶん巻き戻されているよ。よくご覧」

 メイはようやく気づいた。ワンピースがぶかぶかだ。メイは、気づかぬうちに子供の姿になっていた。

「私はどうなるの? ここはどこなの? あなたは誰?」
「残念ながら君の質問には答えられない。もうじき、きみもぼくも、泡になって消えてしまうだろうね」
「泡……?」

 ふと、何かがメイの頭の中で閃いた。はじめは一つで、今は二つ……?





『ここにもう一つ、小さい影が見えます。残念ですが……』





「あなたは、もしかして……」

 『彼』は玉座を離れ、ふわっと水をかきながら、メイの前まで泳いできた。ゆっくりと、魚の仮面を脱ぎ捨てる。

「ぼくたちはひとつだった。あの子はぼくで、ぼくはあの子なんだ」

『彼』のきらきらと輝く二つの瞳は、美しい琥珀色をしていた。

 メイは、『彼』——『小さきもの』を抱きしめた。

「ぼくは外の世界にはいけないんだ。もうじき泡になって消えてしまうんだ。ぼくだって、名前が欲しかった。外の世界を見てみたかった」

「ママ」

『小さきもの』は、目を見開いたまま、ぼろぼろと琥珀色の涙をこぼした。

 メイは、失った時間を悔いた。今になってやっと解った。この子が、メイのもう一人の子供が、自分を呼んだのだと。

「あなたのお名前は、『ユウキ』にしましょう。あなたは、とても強い人なのよ」
「ぼく、名前をもらえたの?」 

 涙を拭って、精一杯に笑ったユウキの前に、ふわりとナオキが現れた。ナオキは、ユウキの手を取った。

「おめでとう、ユウキ」

 メイは二人を抱きしめた。

「ナオキ、ユウキ。ふたりとも大好きよ」 

 二人の子供たちは、互いに抱き合いながら大きな声で泣いた。






「メイさん! しっかりして!」
 目を開けると、フサエさんが顔をのぞき込んでいた。
「防波堤の上で倒れていたのを、近所の漁師さんが見つけてくれたの。メイさん、破水してるわよ! さあ、もう一回頑張りましょう! 元気な赤ちゃん、産みましょうね!」



 海辺の助産院で、メイは男の子を産んだ。愛しい我が子は、ゆっくりとまぶしそうに目を開けた。 

 その片方の目が琥珀色であってほしいと、ひそかに願っていた。窓の外に目をやる。ドラゴンはもういなくなっていた。

 嗚咽をこらえ、精一杯に微笑む。

「ママに大切なことを教えてくれて、ありがとう」

 ナオキは不思議そうに目を見開いたが、すぐに、にっこりと笑ってみせた。

<終>

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