夜のピクニック~冷めないうちに、あつあつの焼きりんごをどうぞ~【#シロクマ文芸部】
りんご箱が、今年も無事に届いた。
「紗菜」
集中しているときの紗菜には、私の声さえも届かない。
「紗菜、りんご届いたよ」
日曜日だというのに、紗菜は、ダイニングテーブルに向かい、パソコンとにらめっこして、論文を書いている。
「紗菜ってば」
キーボードに、りんごを置いた。真っ赤でつやつやに光る、涎が出るほど美味しそうなりんごを。
紗菜は、ふっと息をつき、気怠そうに私を見上げた。
「茉莉。今、このりんごのせいで消えた論文の三行を、私がどれほどの時間をかけてひねり出したと思うの?」
紗菜は、生粋の理系だ。研究の神様に選ばれた彼女は、大学で、発生神経科学教室の助教をしている。
そう、私の彼女の、紗菜は。
「今年も、とっても美味しそうなりんごだよ。お母さんに、連絡くらいすれば?」
「じゃあ、茉莉がりんごの絵でも描いて、それを送ればいいよ」
「意地悪」
売れない画家の私と、新進気鋭の研究者、紗菜。釣り合わないのは、私が一番よくわかっている。
「お隣さんに、二個。私の職場に、五個。紗菜、研究室の学生さん、何人いたっけ?」
「六人」
「じゃあ、学生さんと、教授先生、準教授先生、それから秘書さんの分で、九個か」
お裾分けをしても、我が家の分は十分にある。お裾分け用のりんごを包んでいると、りんご箱の底に、封筒が同梱されていることに気づいた。宛名を見て、紗菜の許可なく、すぐにペーパーナイフで封を切る。読んで、かたり、と手紙を床に落とした。
「紗菜」
紗菜は、まだ論文を書いている。
「紗菜っ!」
紗菜のノートパソコンを、無理やり閉じた。紗菜が、驚いて私を見上げる。
「お父さんが」
手紙には、紗菜のお父さんが、その命を終えたことが記されていた。
紗菜は、りんご農家を継いでほしいと懇願するお父さんを振り切って、大学院に進学した。お父さんと紗菜は、大喧嘩の末、絶縁した。毎年、お父さんに隠れて、お母さんがこっそりと送ってくれるりんご箱だけが、紗菜と家との唯一の結びつきだった。
父親を亡くした紗菜は、不思議なほど、普段通りに見えた。
「義理の弟が畑を継ぐって、手紙に書いてあった。だから、畑は大丈夫」
「でも、ご挨拶に伺った方が……」
「大丈夫」
これ以上、私は踏み込めない。
せっかくもらったりんごだったが、いつもどおりに、皮をむいてお皿に出してしまったら、きっと紗菜は傷つくだろう。お裾分けの余りの、美味しそうなりんごは、冷蔵庫の奥で沈黙することとなった。
一週間がたち、二週間がたった。紗菜は、いつも通り、大学で実験をして、家で遅くまで論文を書いていた。
紗菜のお父さんが亡くなって、一月がたった。
金曜の夜遅く、私が寝る支度をしていた時だった。
「茉莉」
「紗菜、どうしたの?」
紗菜の目が、少しだけ赤い。
「りんご、食べたい」
紗菜の目から、ぽろぽろと宝石のような涙があふれる。
私は、紗菜に駆け寄り、紗菜の、見かけよりも華奢な肩を抱きしめた。
「紗菜。一人じゃない。私の前では、泣いていいから」
冷蔵庫の奥から、まるまる太った真っ赤なりんごを取り出す。丸のまま皮をむいて、お皿に乗せて、紗菜に差し出す。
紗菜は、りんごを齧りながら、子供のように泣きじゃくった。私は、あやすように、紗菜の背中をとんとんと叩く。
そうだ。せっかくなら。
「紗菜、ちょっと待ってて!」
りんごをもう二個取り出した。さっと流しで洗い、皮のまま、輪切りにする。中心の種の部分に、星型の模様が現れた。星の周りの果肉は半透明。蜜がたっぷりと入っている証だ。
フライパンに、有塩のバターを大きく切って、溶かす。輪切りにしたりんごの種を型抜きで抜き取り、フライパンに並べる。じゅわっと、幸せな音がして、バターとりんごの香りが立つ。
沖縄産の黒糖をビニール袋に入れ、すりこぎで叩いて砕く。ひっくり返したりんごに、黒糖をまんべんなく振る。甘い香りが、湯気とともに鼻をくすぐる。りんごを再びひっくり返し、もう片面にも、黒糖を振る。
あとは、バターと黒糖がたっぷり溶け込んだりんごの汁が、カラメルのように香ばしく焼けていくのを、じっと待つ。ぼこぼこと泡が大きくなったら、火を止める。シナモンを振って、出来上がりだ。
ほかほかの焼きりんごを、真っ白なお皿に盛りつけて、紗菜に差し出す。紗菜は、ひくひくと鼻をぐずつかせながら、一口、食べた。
「甘酸っぱい。美味しいよ、茉莉」
また泣き出してしまいそうな紗菜を見て、思いついた。
「ねえ紗菜。今から、ピクニックに行かない?」
ポットにお湯を沸かし、二人分のミルクティーを淹れた。訳が分からないという顔をする紗菜を、部屋着ごと、冬物のダウンで包んだ。私も、いちばんあったかいダウンを着て、焼きりんごとミルクティーをリュックに入れる。
私たちは、近所の自然公園の丘を目指した。秋も深まり、夜は冷え込む。木々は半分ほど葉を落とし、夜気の中には、落葉が醸し出す、綿あめのような独特な香りが漂う。少ない街灯を頼りに、私たちは丘の上を目指した。
「よかった。まだあったかい」
焼きりんごとミルクティーを取り出す。湯気を立てるミルクティーを口にすると、温かいものが、喉を通って、体をじんわりと温める。隣の紗菜は、猫舌なせいか、何度もふうふうとカップを吹きながら、少しずつミルクティーを飲んでいた。その横顔に、思わず顔がほころぶ。
「紗菜、焼きりんごも美味しいよ」
紗菜に、そっと焼きりんごを差しだす。紗菜は、少し間をおいて、焼きりんごに齧りついた。
「父さんの畑の匂いがする」
また、泣かせてしまったのかな。
そう思って、紗菜の横顔をおそるおそる見る。
紗菜は、穏やかに笑っていた。
「茉莉。連れ出してくれて、ありがとね」
紗菜の、見かけより華奢な肩を抱いた。
「私、会いに行くよ。父さんのりんごの木に」
街の明かりが、ミルクティーと焼きりんごの湯気で霞んだ。
いや、霞んだのは、ミルクティーと焼きりんごのせいばかりではなかったのだけれど。
<終>
本作は、小牧幸助さまの下記企画に参加しております。
一月ぶりくらいでしょうか、小牧部長、やっと書けました!
見た目も、味も、香りも、とにかくりんごが大好きなので、イメージがすぐに沸いて来て、楽しみながら書けました。途中登場する焼きりんごのレシピですが、本当においしいので、是非ともお試しください!
季節はあっという間に豊穣の秋となりましたね。最近北国は朝晩すっかり冷え込むようになりました。皆さま、お体に気を付けて、移ろう季節を楽しんで参りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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