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眠りの森のチョコレート【#シロクマ文芸部】
チョコレートのことなんて、すっかり忘れているんだろうな。
まあ、それでもいいか。
バレエの指揮をするのは初めてだ。女性指揮者が珍しいのか、楽屋にいる時には視線を感じた。「眠りの森の美女」、開演5分前。劇場は興奮を孕んだ静寂に包まれている。舞台と客席の間にある、オーケストラピットと呼ばれる窪んだスペースには、楽団員たちが身を潜めるように楽器を構えている。舞台を邪魔しないよう、オーケストラピットは薄暗く、譜面台だけがほの明るい。チェロ首席奏者のユキトに、さり気なく視線を送る。案の定、楽譜しか見ていない。微笑がこぼれ、緊張がほぐれる。私はユキトのこういう真っすぐさが大好きだ。
師匠が、突然の病に倒れた。脳梗塞だった。もう、タクトを振ることが叶わないかもしれない。病院のベッドの傍らで、泣きじゃくる私の頭をそっと撫で、ミハエル師匠は呟いた。
『サアヤ。君がいるから、僕はもう安心していられるんだ。チャイコフスキーに恥じないよう、思う存分、演じてきなさい』
こんなに大きな劇場で、バレエの指揮ができるなんて、音楽大学の学生の頃には夢にも思わなかった。深く息を吐き、指揮台に立つ。
襟足で結んだ黒髪に触れ、身にまとっている黒いパンツスーツに目を遣る。本当は、他の女性奏者たちのように、髪を美しく巻いて、黒のロングドレスを纏い、指揮をしてみたい。けれどそんなことをすれば、指揮台の上で髪が乱れ、スカートを踏みつけて転倒しかねない。音楽が止まり、舞台が止まる。考えただけで冷や汗が噴き出る。
タクトを振り上げ、最初の一拍を刻む。師匠の代役として、楽団員たちは私を認めてくれるだろうか。
ユキトからの視線を感じる。恋人としての視線ではなく、演奏者としての視線だ。それでいい。そのままでいて欲しい。
すべての楽器の音色、誰が鳴らしているか、音程と強弱、ビブラートの癖、そのすべてが、私の頭の中で明瞭な地図となる。この状態に入れば、あとはやり切るだけだ。
『綺麗なだけじゃ駄目なんだ。ダンサーのステップに、呼吸にぴったり沿うように、踊れる音楽を奏でなさい』
ミハエル師匠の言葉が蘇る。あの時、師匠の傍らで泣きじゃくる私の背をさすってくれていたのは、ユキトだった。
ダンサーと楽団員の両方から目と耳を逸らさずに、音楽を生み出し続ける。舞台の上では、ダンサーたちが、まるで重さなんてないように、ふわりふわりと舞っている。
オーロラ姫が眠りに落ち、希望を象徴するリラの精が舞う。存在しないはずなのに、リラの花の香りが会場全体に漂っているようだ。
楽団員たちが、徐々にシンクロしていく。私を信頼して、共に音楽を創ることを、受け入れてくれたことが解る。第一バイオリン奏者の弓の毛が一本切れた。すぐに引きちぎり、曲に戻る。木管はどうだろう。さすが一流のプロ奏者。魔法の笛を奏でるように、一音たりとも音程を外さない。打楽器奏者の目は、獲物を狙う鷹のように鋭く、金管奏者は顔を真っ赤にして、渾身の演奏を続けている。
そして、チェロは。
ユキトと目が合った。私にだけわかるように、微かに、ユキトは頷いた。
パ・ダクション。
チェロのソロが始まる。切なさを含んだ、琥珀色の旋律が胸を打つ。舞台上では、オーロラ姫と王子が、夢のように舞っている。
もう大丈夫だ。
タクトを途切れなく振り続ける。やがて私の輪郭が溶け出し、私自身が旋律となっていく。
本当に、綺麗。
何て美しい世界。
最後の一拍を振り落とすと、轟音が会場を鳴らした。私は、楽団員に、ダンサーたちに、深々と頭を下げた。声にならない声で、「ありがとうございました」と叫んだ。
カーテンコールを終え、楽屋に下がると、オーロラ姫役のアリスが、私をぎゅっと抱きしめた。いい香りがして、私は目を閉じた。楽団員たちの拍手が聞こえる。生きていてよかったと、本当にそう思った。
「サアヤ、目を閉じて!」
アリスが、悪戯っぽく、緑色の目をくるくると動かした。言われるがままに、私は目を閉じた。
次の瞬間、体がふわりと持ち上がった。くるり、くるりと舞っている。まるでオーロラ姫のようだ。
アリスの声が聞こえる。
「Guess who?」
——誰だと思う?
ダンサーの誰かだろう。もしかして、デジーレ王子かもしれない。
「Open your eyes!」
——目を開けてみて!
私をふわりと持ち上げていた王子様は、ユキトだった。私をそっとフロアに降ろすと、ユキトはうやうやしく跪いた。
「サアヤ。僕と結婚してください!」
楽屋が沸いた。指笛と歓声で、体が震えた。
なーんだ。
ちゃんと気づいてたんだね。
今日の朝、私はそっけなくチョコレートを手渡した。
箱の中に、メッセージを入れておいた。
『今日の公演が無事終わったら、私に何を言えばいいか、わかってるよね?』
<終>
この小説は、小牧幸助さまの企画 #シロクマ文芸部 に参加しております。
小牧部長、久しぶりに書けました!
昨日夜放送されていたとある番組に出演されていた、女性指揮者の方の演奏が、それはもう素晴らしく、モデルにさせて頂きました(名前、その他すべての情報は樹による完全な創作です)。
やはり、音楽が好きです。
踊る方はさっぱりですが、見る側としてバレエも大好きです。
のびのび書かせていただきました。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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