見出し画像

あなたの好きな世界を見せる本

 近所を商店街を散歩をしていると、商店街に気になる建物を見つけた。というのも、この商店街の雰囲気とあまり合っていなかったからだ。
 その建物は木造で、全体が深緑色に塗られていた。扉の上には小さな窓があった。扉は重厚な作りで、ドアノブの部分はライオンが輪っかを咥えている。
 この通りはそれなりに人も多いのだがこの建物に誰も見向きもしない。看板も出ていないからそもそも何の建物なのかも分かっていないのだろう。私はそっとライオンのドアノブに手を当てて扉を押してみた。重厚な作りとは裏腹に、その扉は音も立てずにするりと開いた。
 中に入ってみた。中には本棚が並べられていた。本棚と本棚の間の通路は細く、人がすれ違うにはお互い避けなければならないだろう。本棚は自分の身長をゆうに超えており圧迫感を感じた。梯子もその本棚に立てかけられていて、なるほどその梯子を使って取れば良いのだなと思った。扉を閉めると外の話し声や流れていた音楽はもうほとんど聞こえなくなり、まるでどこか遠い世界に飛んできたようだった。本棚の通路の先には木の机が置かれていた。おそらくあそこで受付や何かをするのだろうと思った。奥に長い、いわゆるうなぎの寝床のようなものになっていて、距離にしては恐らく10mほどだろうか。外見の印象から勝手にこじんまりした中を想像していたため少し驚いた。
扉の上にあった窓から、私の背中へ光が差し込んでいるのに気付いた。その光にこの部屋の埃が舞っているのが見えた。
 静かだ。
 私はこの空間が好きになった。本以外に誰も、何もいない場所。
なんとなく、本を手に取ってみた。どの本も同じ規格のもので分厚く大きい。不思議なことに、どれも真っ黒で背表紙や表紙にタイトルがなかった。表紙をなんとなく撫でてみた。ざらとした肌触りで気持ちの良いものだった。高価な良い本という感じがする。
「気に入りましたか」
 声のする方を向くと男性が立っていた。年齢は40代から50代で、紳士という言葉が似合う印象を受けた。髪はきっちりセットされており、髭も綺麗に剃られている。シャツにジャケット、スラックスと服装はカジュアルなものだが彼にはどこか洗練された雰囲気があり、服装さえ変えればどこかの格式高いパーティにも参加できるのではないだろうかとも思った。
「良い本を選ばれましたね」
 彼は私の持っている本を見ながら言った。
「タイトルも何も書いてありませんが、分かるものなんですか」
「分かりませんよ。しかしあなたが手に取ったのなら、あなたにとっては良い本のはずです。人が本を選ぶのではなく、本が人を選ぶんですよ」
 訝しむ私に彼は微笑んだ。その優しい笑みに、私は一瞬見惚れて呆けてしまった。
「開けてみませんか」
「え?」
「本です。今お持ちになっているその本、開けてみませんか」
「あ、はい、そうですね」
 言われるがまま、私は表紙を開いた。
 蝶が舞った。
 1匹の水色の蝶が、ひらひらと本の外へ現れた。
 私は驚いて固まってしまった。私たちは何もすることなくその蝶の様子を見ていたが、その蝶はしばらく私たちの前で舞った後、本棚の向こうへ行ってしまった。開いたページを見ると、そこは真っ白で何も書かれていなかった。私は困惑して彼の方を見たが、彼はまだ微笑んだままだった。
「もっと真ん中らへんをゆっくり開いてみてください」
 彼に言われた通り今度は真ん中あたりを開いてみた。すると本のページが光り始め、蝶が数匹、また本からヒラヒラと出てきた。白い光があたりを包み込んだ。
そこには別世界が広がっていた。正確には本棚は存在しているのだが、本棚と自分達だけ別の世界に飛ばされたような感じだ。本棚の本と本の間から芽が出ていたり、木が本棚から生えたりしている。本棚の本の隙間から、草むらや木々が見えた。上から太陽の光が差し込み、非常に幻想的な風景が広がっていた。空を見上げると、木々の葉の間から青空が見え隠れしている。本棚の先、つまりさっきまで机が置かれていた場所には小さな湖らしきものも見えた。どこか遠くで鳥の鳴き声も聞こえてきた。私は動揺して彼を見た。
「あの、これはどういうことですか?」
 彼は少し考える素振りを見せ、暫く沈默した。
「…簡単に言いますと、この本たちは人それぞれの脳や心に呼応して手にとって本を開いた人が見たい物語、見たい世界を見せるのです。だからあなたがその本を取ったのも全くの偶然ではないんですよ」
「偶然ではない?」
「そうです。本が、あなたに自ら選ばせているのです」
 私はもう一度目の前に広がっている森に目をやった。出口は見えないが、上は木々が完全に覆うことはなく光が差し込んでいて、穏やかな雰囲気という印象を受けた。
 湖でフラミンゴが数匹水浴びをしているのが見えた。カサカサ、と足元で音がし、そちらに目をやると小さな鼠が足元で走り回っていた。確かに、この世界は嫌いではない。
「じゃあ他の本を取ってみても良いですか?」
「はい、どうぞ。その本を閉じれば元の世界に戻ることができます」
 本を閉じると、さっきまでの世界が嘘のように消え、元の静かな部屋に戻った。本を戻し、次の本を探した。しかしどう見ようとも本はどれも同じように分厚くタイトルもないため違いが分からない。結局勘で自分の腕を伸ばして届くギリギリの段から1冊取った。
 また同じように開くと、また白い光に包まれた。
 しかし、今回は部屋の様子は変わらなかった。今回は反応しなかったのだろうか、と思い本を閉じようとすると、本棚をすり抜け、目の前に大きなコブ鯛がゆっくり泳いでいった。本棚の先では大きな鯨が泳いで行ったのが見えた。本棚の上を、イルカが鳴きながら数匹泳いでいった。今度は海の世界にいるようだった。床も気付けば無くなっていた。いつの間にか視界は青一色になっていて、私たちは海の中にいるようだった。不思議な感覚だった。本棚だけはちゃんとあるのにそれ以外は全て取り払われ、上下左右どこをみても海が続いている。
「これが、僕の見たかった世界ですか」
「そうなんでしょうね。良い世界観だと思いますよ」
「本当にどの本も違うんですか」
「違います。ただ本を開く人が同じだと、世界が若干違うだけで空気感というか雰囲気は似たようなものになりがちですね。きっとあなたは海とか森とか自然のもの、そして幻想的なものが好きなんでしょうね」
 実際私は本当にそういう世界は好きなので、心を見透かされた気がして恥ずかしくなった。私は照れ隠しのために
「でも、こういう世界観が嫌いな人はほとんどいないと思いますけど」
と少しぶっきらぼうに言った。
「そうでしょうね。私もこういう世界は好きですよ。しかしこれだけ本の世界がある中で、それが出てくるってことは他の人よりも特にこういうのが好きなんだろうって思ったんです」
 しかし、私しかやっていないためやはり疑わしい。彼も私のその感情に気付いたらしい。
「その顔は少し疑っている顔ですね。分かりました。私も1冊選んでみましょう」
 そう言って彼は近くの本を見回し、腰くらいの高さにある棚から1冊取り出して開いた。
 白い光に包まれた。今度はかなり暗い世界にいた。先を見ると微かに光が差し込んでいるのが見える。
「光の方へちょっと行ってみましょう」
 彼は本を開いたまま、どこから持ってきたのか分からない机に置いた。本棚を抜け光の方へ近づいていくと、その光は両開きの重厚な扉から漏れ出したものというのが分かった。中からは楽しそうな笑い声や音楽が聞こえる。彼が扉を押すとゆっくり扉は開いた。話し声と音楽が大きくなる。映画でしか見たことのないような大きなパーティ会場が目の前に広がった。
「ようこそ。お待ちしておりました」
 支配人のような人がお辞儀をした。大勢の人が談笑をしていて、そのうちの何割かはグラスを持っている。中央でダンスを楽しんでいるカップルがそれなりにいた。年齢構成はバラバラで、若い人たちもいれば、老夫婦のような組もあった。彼は、2、30代くらいの女性たちが話している輪に歩いて行き話しかけていった。その時、彼の服装がちゃんと舞踏会用の服装になっていることに気づき、自分のもそうなっていたことに気付いた。彼はその輪の中でしばらく談笑した後、そのうちの一人と中央のダンスの中に入っていった。
 私は1人やることがなくなって辺りを見回した。会場は非常に大きく天井も見たことがないくらい高い。大きなシャンデリアが取り付けられており、中世のフランスの社交場はこんな感じだったのだろうかと思ったほどだ。
「踊られないのですか」
 後ろから声をかけられた。振り向くと私と同い年くらいの女性が立っていて、彼女は私が高校時代に好きだった子に似ていた。その時自分の心臓が高鳴ったのが自分でも分かった。それと同時に自分にはまだあの頃の未練を捨てきれていなかったのかという驚きもあった。
「いえ、踊る相手もいないので、私はここで様子を見ているんです」
「あら、それは勿体無いですよ。折角ここに来たのですから」
「僕は踊りも知らないし苦手なんですよ」
「大丈夫ですよ、私が教えますから」
 彼女に手を引かれ、私は中央の広間に出た。
「さぁ、こう手を繋いで」
 私たちは向かい合って手を繋ぎ、彼女の指示のもと踊り始めた。数分くらいやって慣れ始め、周りの様子も見れるようになってから女性と踊りに興じている彼の姿を捉えた。彼も私に気付いたらしく、女性と踊りながらこちらに近寄ってきた。
「どうです。これが私が出した世界です。あなたと全然違うでしょう」
 彼はそう言って私と踊っている女性に目をやり、
「素敵な方ですね」
 と言った。
「では、そろそろ戻りましょうか」
 私たちは踊りをそこそこに彼女らと別れ、元きた道を歩いていった。本棚まで戻り、机の上に置いてあった本をパタンと閉じた。辺りが明るくなり、また景色が元に戻った。
「どうです、納得していただけましたか?このように人の好きな世界は本当にそれぞれ違うものなんですよ。そして面白いのが、自分が興味ないと思っていたものなんかも実は好きだったなんてよくある話なんです。人の気持ちや想いなんてものはいつも不確定で不安定なものなんです。好みなんて何かの拍子にすぐ変わるものだし、そもそも自分が何が好きか、まだ出会っていないだけ、知らないだけというのもあります。自分で自分が好きなものを自分で認めたくない、とかね。社会的に認められていないから、自分でそれを認めてしまえば辛くなるのがわかるから」
私は彼の言っている全てを理解することはできなかったが、相槌を打った。
「自分を知りたい人、自分の好きな世界に行きたい人なんかがいらっしゃれば面白いと思いますよ」
「そうですね。面白いかもしれません。ただその…気になったんですが、依存とかってないんでしょうか」
「依存?」
「自分の好きな世界だけ見るっていうのは、なんだか現実世界が辛いからこの世界に隠れたいというような」
 彼は笑った。
「好きな世界を見るのがそうなら、映画なんかはどうなりますか?ゲームなんかもそうですね。あれらも広い範囲では『自分の好きな世界』に行っているわけですよね。スマホだってそうですよ。自分の好きな情報に浸っているわけで、スマホのほうがよほど依存性が強く、あちらの方が時間を食っていると思いますね」
「そういうものですか」
「そういうものです。また気が向いたら来てください。今度はお友達を連れてきても良いですよ。ただお互いの世界が見れてしまうので、気心知れた人が良いですね。もし何かに悩んだり迷ったりしていらっしゃるなら何かのヒントになるかもしれません。自分を知ることはご自身にとっても大事なことですから」
「あ、そういえばお金は」
「良いんです、お客さんは滅多に来ませんし、半ば私の趣味でやっているので」
「そうなんですか。じゃあ、ありがとうございました」
 私はなんだかふわふわした感覚でその建物を出た。扉を開けた瞬間、商店街の音楽と話し声がまた大きくなる。いきなり元の世界に戻ってきた感覚になった。
 また近いうちに寄ってみよう。
 そう思い私は軽やかに歩きだした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?