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最高の教育環境

ゴーン、とチャイムが鳴った。
「英二くん、そろそろ中に入って、お勉強の時間よ」
遠くで先生の声が聞こえる。英二は木陰に座り、空を見上げながら物思いに耽っていた。そろそろ戻る時間だ。英二は腰を上げた。昼食を食べたあとの昼休み、英二はよくここに来る。ここは野原が広がった場所で、所々に大人2人程が座って休めるくらいの木が生えている。英二はその木陰が好きでよくそこに座っているのだ。実に長閑な世界である。野原を一本の大きな道路で挟み、向こう側には図書館、病院、学校、そして英二たちの家が建てられている。つまり約半分は居住区域、その残り半分は自然区域、所謂野原、というわけだ。しかし、この世界がどこまでも続いているわけではない。周りが四方白い壁で囲われている。この世界は英二にとって狭いわけではないが、決して広いとは言い切れない。大きな一本の道路も壁に設置された扉によって行く手を阻まれている。そもそも英二はここで車を見たことがないし、こんな道路は果たして意味を成しているのだろうか、とも思ってしまう。何故ここが仕切られているのか、それに何の意味があるのか、英二にはさっぱり分からない。しかし少なくとも、物心がつくときにはここにいたことだけは確かだ。
ここの人口はざっと見たところ30人程度。この面積の割に人口密度はあまりに低いような気もする。逆に考えればそれだけの人数で効率的に回しているということなのだろう。英二の住む場所は学校に併設されているため、英二が毎日会う人というのは限られている。学校以外に視点を向けてみても、実際病院に殆どかかったことは無く図書館でも殆ど話さず黙々と1人で本を読んでいる。英二はこれ以上の人数は必要だと思わないし、その環境に不自由さ、またこのコミュニティに対する狭さすら感じたことはない。
英二が今から向かおうとしている学校にも少し特徴がある。学校には基本的に3人でやりくりしているらしい。マンツーマンで教えるための先生と、この学校を運営する学校長の役割を担う先生が1人。実際に英二の授業を担当する先生は1人だけだから、学校長の顔は見たことはあるが、話したことはおろか、会うことも殆どない。この学校には、生徒が2人しかいないため、そもそもそこまで教員数が必要ないのだ。
ここでの生活といえば、毎日同じことの繰り返しである。朝起きて着替えなどの準備をし(服は3ヶ月に1回程度、定期的に支給される)、用意された朝ご飯を食べた後、専用の教室に入って先生と1対1で授業をする。国語・英語・算数・理科・社会。基本的な勉強だ。毎日例外なく、決まって14時までである。宿題はあまり出ず、強いて言えば「何事にも興味を持って考えながら生活しなさい」とはよく言われる。ただしその授業の割合はバランスを重視するよりかは何か1つを伸ばすというような方針だ。例えば英二は完全に国語特化(特に文学作品、最近は表現技法の勉強をしている)の授業で、国語の勉強が5教科のうちの半分を占めている。隣の教室で勉強している啓一は理科特化(特に物理・科学だと本人は言っていた)型の勉強をしているらしい。啓一は気の優しそうな少年である。彼とは馬が合い、よく話をする。彼も英二と似たような性格のようで、1人でいるのが好きなようだ。勉強の時間以外は図書館で本を読み、また広場に行って虫や植物のデッサンや観察などをしている。この時が楽しくて楽しくて仕方がないのだという。学校で勉強している内容を聞いたことがあるが、既にかなり専門の知識分野に入っており、自分には何が何やらさっぱりだった。以前、こういう話をしたことがある。
「英二くんは、授業の後に追加で先生と何かやったりしてる?僕は授業が終わってから、先生と必ず物理か科学の実験をするんだ。それで、何を考えたか、なぜそう感じたかをレポートに書きなさいって。面白いから全然構わないんだけどさ」
英二は基本の授業を受けた後、必ず詩や小説などの創作物を書く時間が設けられる。書く内容は不問で、自由に何を書いても良いと言われている。英二にとって詩も小説も嫌いではなく、寧ろ好きなのだが、こうも毎日書かせようとすると逆に書きたいという意思もなくなってしまうものだ。書くは書くのだが、自分の満足するものが書けているのかどうかすら分からない。先生も首を傾げている。それはそうだ。書きたいと思って書いていないのだから。
「詩とか小説とか、そういうのを書かされることが多いかな」
そう言うと啓一は、
「そうか、でもやることは全然違うんだね。興味深いなあ」
と言った。何故2人が全く違う分野を授業の後にするのか全く分からない。ただ少なくとも英二は算数や理科はそこまで得意ではないので、それぞれ適性を見て得意なものを伸ばそうとしてくれているのだろう。
英二には長い間気になっていることがある。啓一も含め、英二には「親」というものがいない。そして苗字をも持たない。ただ「英二」という名前があるだけである。「苗字」という概念は図書館で小説を読んだ時に初めて知った。小さい頃先生に、その「苗字」と言うものについて聞いたことがある。「何故自分には苗字というものがないのか」と。先生は困ったような顔をして「そうねえ…。今必要がないから、それだけよ」とお茶を濁された。ちゃんと答えてもらえなかったことに不満は抱いたものの、特に気にも留めなかった。苗字はないが、今の自分に無くても不自由は無いのだ。親がいないこと、苗字を持たないこと以外は何1つ疑問に思うことなく自分のことがしたいことができているように思う。学校の先生は優しく接してくれるし、啓一もここに住む人はみんな優しくしてくれる。
そんな英二ももう9歳だ。ある程度自分の置かれている状況を整理し、この環境にも理解が及ぶ頃だ。英二が立てた仮説は、ここは「孤児院」ではないかということだ。もしそうであるならば自分に親と苗字がないのも納得できるし、今現在この世界で生活し外の世界と隔離されているのも、ちゃんとここで経験を積んでから外に出すような方針にしているからだと考えれば合点がいく。図書館で本を読む中で「孤児」という言葉を発見し、自分もそうではないのかと悟った。自分が孤児なのではないかということまでは流石に先生に直接聞いていないが、きっとそういうことなのだろう。
昔の孤児院というのはそこが家(どちらかといえば寮)のような存在だったらしい。何人もの孤児たちが一堂に集い、そこで生活をする。最初から普通の学校に行き、他の「普通」の人たちと生活をする。しかしこの「孤児院」は、もう既に一種の共同体が存在している。恐らくこの扉の向こうに本当の「世界」があるのだろうと思っている。だからこそ、英二が見る限り殆ど意味をなしていない立派な道路も外の「世界」へと続いているからと考えれば納得できる。たまに向こうの「世界」から笑い声も聞こえる。
この学校には生徒は英二と啓一の2人しかおらず、そこから勘案するとこの孤児院はかなりの少数精鋭ということになのかもしれない。少子高齢化が現在進行中であり、その勢いは止まる所を知らないというのを図書館で読んだ。もしかすると少子高齢化は自分の想像以上に深刻な状態に陥っており、そもそも子どもを捨てる親が殆どいなくなるほど子供が貴重な存在になってしまったとか。最近、この仮説を確信づける証拠を入手した。この情報はつい先月先生に教えてもらったばかりなのだが、この施設はある一定の年齢が来ると外からの迎えが来るシステムらしい。英二と啓一がその時期に入ったようで、今は丁度外から呼ばれるのを待っている時期だという。先生は、きっと良い所に行くわ、と言ってくれている。だから何も心配することはないのよ、と。親にも会えますか、と聞くと少し動揺した様子だったが、さぁ、どうかしら。それは自分次第かしらね、だから今頑張らないといけないわね。先生はそう言って微笑んだ。それは少し寂しげな笑みにも見えた。親に会いたくない訳ではないし、外にある「普通」の生活とはどのようなものなのか考える時もある。しかし英二はこの環境に満足している。先生は優しく、やりたいことは出来るし、不満に思うことは一切無い。何1つ申し分ない環境ではないだろうか。実は外の世界より良い環境だったりして、とも思ってしまう。こんな「最高」の環境に入れてもらえて、逆に自分は幸運だったのではなかろうか。英二は今、そのような気持ちでいる。
学校に向かうべく道路を渡る直前、学校の近くに住むおばさんに出会った。
「英二くん、こんにちは。これから授業なのね」
「こんにちは。そうです、今向かっている最中で」
「毎日偉いわねえ。ちゃんと頑張るのよ。良かったら、また勉強した内容をおばさんに教えてね」
「はい、ありがとうございます」
おばさんはニコニコとして英二を見送った。このおばさんは行く道中によく会い、一言二言交わして学校へ行く。これももう英二の日常の一部に組み込まれていると言っても過言ではない。いつも通りの日常。いつも通りの風景だ。                                                 
しかしこの日の学校は、いつもと様子が違っていた。学校の入り口に普段は絶対に見かけない車が横付けされていたからである。大きな白い車である。そもそも、英二は実際の車を見たの初めてだ。何かあるのだろうかと英二は訝しんだ。
疑問に思いながら車の前を通り、入り口を抜けていつものように教室へ向かおうとした。いつもは教室で待っている先生が、今日は廊下で誰かと立ち話をしているのが見えた。先生は少し険しい表情で、黒服の男と話している。先生は俯いており、泣いているようにすら見える。それと対照的に男の方はサングラスをかけているせいもあり表情はあまり読み取れない。そもそも彼に感情が無いようにも見える。先生とその男が英二に気付き、こちらに向かって来た。
「英二くんだね、ついて来なさい」
冷ややかな口調でそれだけ言い、英二の返事を待たず車に向かって足早に歩き始めた。
「え、でもこれから授業があるんじゃ…」
「それはもう無い。それを考える必要は無いのだ」
男は背中を向けながら答えた。
「いや、でも、先生が」
先生がいた方を向くと、先生は背を向けて廊下の方へ歩いて行く途中だった。
「さあ、こっちだ」
後部座席のドアが独りでに開き、言われるがまま、車に乗り込んだ。その車は外からは中が見えない仕様になっていた。男性が運転席に乗り込み、ボタンを押した。
「自動運転を開始します」という女性の声が車内に流れ、車が発進し始めた。
その車にはハンドルがなかった。男はサングラスをかけたまま席に寄りかかり、腕組みをしてそのまま動かなくなった。恐らく寝ようとしているのだろう。
「あの」
英二が話しかけた。
「これから僕はどこへ行くんですか?」
「別に君が知る必要はない」
「いや、ただ興味というか、知りたくて。ここに帰ってこられるんですか?」
「君は『卒業』したんだ。戻ることはないし、何も気にすることはない」
また沈黙が流れた。
英二には気になっていることがもう1つあった。
「すいません、啓一はどうなっているんですか?」
いつもは1日の授業が終わった後、野原にいる啓一を見つけて話しかけに行く。そして2人で今日あったこと、考えたことを話すのが日課になっているのだが今日は一度も啓一に会ってもいなければ、姿を見かけてすらいない。
「けいいち?あぁ。K-1のことか。あそこではそう呼ばれていたんだな。あれは成功だから、きっと社会に出せるんだろう。お前は残念だったなぁ。」
何が残念なのか分からない。そして自分は一体どこへ連れて行かれるのだ。益々訳が分からなくなった。英二の疑念は余所に車はどんどん進んで行く。自分が生活していた見慣れた風景が流れていく。暫くもしないうちにあの大きな扉の前に近づいてきた。
「扉を開けます」
またさっきと同じ女性の声が車に響いた。それとほぼ同時に大きな扉がゴゴゴ、と音を立てて開かれた。この扉は自動式だったのか。この扉の向こうには一体どんな世界が広がっているのだろう。英二は期待に胸を膨らませていた。そう思ったのも束の間。また同じような場所が広がっていた。寧ろその景色は自分が今まで生活していたものと酷似していた。大きな道路に、病院、図書館。そして学校。どういうことだ?これが外の世界?いや、それはない気がする。困惑したまま景色を眺めていると、自分と同じくらいの歳の男の子がボール遊びをしているのが目に入った。また、広場で自分より年上の女の子がベンチに座って本を読んでいるのも目に入った。また同じような扉に到着し、同じように扉が開かれる。現れたのは、また同じような世界。環境は全くと言って良いほど、英二らが過ごしていた世界と同じである。違うのはそこにいる人たちだけだ。例外なく同じような扉を開け、同じような風景を見ていた。
これを5回くらい繰り返したろうか。急に景色が変わった。完全な荒野。周りには何も無い。茶色い土と岩というほどでも無い大きな石がゴロゴロと転がっており、その景色が一面に広がっている。英二が過ごしてきたような緑はどこにも無い。その荒野の中を大きな道が一本だけ、延々と続いている。英二の学校の前を通っていた道が、ずっとここまで続いている。そこから20分くらい進んだろうか。山を登っているが、あいも変わらず景色は一向に荒野のままである。しばらく走るとポツンと研究所らしい建物が見えてきた。研究所の近くまで来たところで道は途切れていた。
「自動運転を終了します」
また女性の声がし、車が停まった。男は気だるそうにドアを開けて車を降り、英二が乗っている後部座席のドアを開けた。
「さぁ、ここから歩くんだ」
英二が車を降りた途端に、英二はガチャリと手錠をかけられた。英二はギョッとした。これでは、まるで自分が悪者みたいじゃないか。
「どういうことですか、僕何も悪いことしていませんよ」
男はこちらを何も見ず、黙々とその研究所の方へ向かって行った。近くで見ても、やはりそこまで大きくはない。自動扉が開いた。少し暗がりな研究室のようだ。長い廊下が続いているのが見える。その廊下の横には扉がある。彼はその扉をコンコン、とノックした。プシューと横に扉が開く。殺風景な部屋だった。置かれている物は殆どない。目の前には机に向かい、パソコンと向き合っている初老の男性がいた。白髪で、目つきはかなり鋭い。英二はその男性をどこかで見たような気もしたが、思い出せなかった。
「博士、A-2を連れてきました。」
A-2?それは自分のことを言っているのだろうか?
「あぁ、A-2の処分ね。状況報告だけしてくれたらいいから。原因と打開策をな」
「博士」と呼ばれた男が口を開いた。彼らは何を話しているのだろうか。全く意味がつかめない。
「あの、僕は、どうなるんですか」
男性に話しかけた。しかし2人は完全に英二のことは無視している。
「報告を始めます」
右ポケットから何やら細い棒状のものを取り出し、それを巻物のように開くと、透明なシートに文字や図が浮かび上がった。それを見ながら何かを報告し始めた。
「報告します。結論を申しますと、期待したほど創作力、文章力は伸びませんでした。」
「博士」は黙ったまま、パソコンを見つめている。
「やはり、負荷がもう少し必要なようでした。あまりに伸び伸びやらせると、ストレスを感じにくくなり、彼特有の表現力が生まれてこないようです。劣等感を煽らせるような要素も必要なようです」
「それで?」
「彼の生い立ちから、ある程度の閉塞感、不平感、そういったものから創作意欲は生まれてくるのではないかと仮定されます」
「うん。他に重要連絡事項はあるか」
「いえ」
「そうか、じゃあ次回はエリア3−1で試そうか。こちらから向こうへ連絡しておく。その間にお前はそれを処理場に連れて行け、いつものように終わったら報告だけして帰って良いからな」
「はい、分かりました」
英二は男に腕を引っ張られ、一緒にその部屋を出た。
「こっちだ」とまた冷たい声で言い放たれた。長く続くこの廊下には、入り口にオレンジ色の電球が吊り下げられているだけで奥の方は殆ど光が入っていない。冷たく暗い、無機質な廊下を歩いていく。カツカツ、と男性の靴の音のみが反響して聞こえる。暫く歩くと行き止まりで、右手に鉄製のような扉があった。
「ここに入るんだ」
言われるがままに英二は中に入った。部屋に入る瞬間に男が不憫そうな顔をしたのを英二は捉えたが、その表情はすぐに消え失せていた。入れられた場所は見るからに刑務所のような雰囲気だ。灰色のコンクリートの部屋で、置かれているものは何も無い。扉は鉄製か何かは分からないが、少なくとも金属製のようなものだった。窓もなく、扉を閉めてしまえば蟻1つ入れない部屋だ。入った瞬間に、ガチャン、と閉められた。その瞬間に暗闇が英二を襲う。今気付いたが、この部屋にも明かりが全く無い。扉の上部に付いている、小さな鉄格子の窓から差し込んでくる微かな光のみだ。
「これは何ですか。僕はどうなるんですか」
英二は焦り質問した。何か悪いことが起こりそうな気が、いやそれよりも酷い、生命の危機すらも感じたからだ。
「どういうことか知りたいだろうね。君は毎回そう聞いてくる。」
男は冷静にそう答えた。「毎回」?「毎回」とはどういう意味だろうか?
「結論から言おう。君は殺されるのだ。君はクローンで、それでいて失敗作なのだ。」
英二は彼が何を言っているのか全く把握できず、動揺を隠せなかった。顔が歪む。
「驚いた。このレベルで理解できないのか、今回は相当にレベルを下げたな」
顔は見えないが、声から呆れているというのは伝わってくる。
「分かりやすく言おう。君は、某有名文豪のクローンなのだ。君が新しい本を書くことにより、今後の文学界に影響を与える使命があったのだ。そして、君は9歳になるまでに結果を出せなかった。だから君は処分される。つまり殺されるのだ。」
「何故急にこの時期なのですか」
「君のオリジナルが、丁度この時期に才能の片鱗が見えると言われる詩を書いたとされているからさ」
「何故そう言わなかったんですか。もしかしたらそう言われた方が書けたかもしれない」
「今回はそういう方針だったからさ。君にも負い目はあるのだ。こちらは考え得る最高の学校環境、最高の教師、最高の生徒と、これ以上ない教育環境を用意していたのだ。そこで一定期間内に才能を開花させられなかった。それはお前の責任だとも言える。しかしまだまだ実験段階であるし、失敗したのはこちらにも非がある。それは謝る。せめて死ぬ時くらいは楽に、苦しまないようやってやるからな」
「ちょっと待ってください。今まで僕がいた世界は何なのですか。本当の世界は今どうなっているんですか」
フッ、と鼻で笑ったような音が聞こえた。
「今更そんなことを聞いてどうするんだ」
冷たい声。
「そうですか…。でも冥土の土産に、それくらい答えてくれても良くはありませんか」
扉の向こうから、「あー…」という声と、ガシガシと頭を掻く音が聞こえてきた。
「気が変わった。折角だ。最後、君の質問に答えてやろう。」
「本当の世界はまた別の方にある。恐らく、君が今想像しているほど素晴らしい世界ではないかもしれないな。じゃあな。また」
そう言うや否や、扉の上部にある鉄格子の部分が、音を立てて閉められた。真っ暗闇だ。何も見えない。急に静寂が襲ってくる。しかし、その静寂も一瞬だった。どこかから「シュー」と漏れるような音がし始めたからだ。なんだか眠くなってきた。体もだるくなってくる。もう立っていられない。英二の視界はどんどん狭くなり、そして暗くなり、そのまま倒れてしまった。


***


カツ、カツと靴の音が暗い廊下に響く。男が研究室のドアをノックする。また扉が自動で開いた。「処分完了しました」と男が言い、「うん、ご苦労」と博士は男の方を見ず、パソコンに顔を向けたまま返事をした。
「A−2のクローンは極力早めに結果を出せよ。科学者の需要の方が圧倒的に多いんだからな。予算もあまりそちらばかりに出せない」
「はい、申し訳ございません」
また男が口を開いた。
「…あの。やはり伝えておくべきかと思いまして。報告なのですが。そろそろA−2とK−1を育てているL−4も限界が近いようです。泣きながら私に、これ以上彼らのような幼い子を送り出すのは無理だ、もう耐えられないと訴えてきました」
「もうそんな時期か。構わん。処分しておけ。『あれ』ももうかなりの年数やっただろう。もう新しい彼女のクローンのストックがあるはずだ。そこへ入れておけ。そんなことはいちいち報告せんで良い。勝手にやっておいてくれれば良い。そこはお前の裁量でやるところだ。あまり俺のを手を煩わせるなよ」
博士はまだパソコンの方を向いたままだ。
「しかし…。博士、この実験は正しいのでしょうか」
作業する手を止め、目だけジロリと男の方を見た。
「当たり前だ。正しいに決まっている。優秀なものが繁栄する。劣るものが消えていく。それが自然の摂理であるし、そうあるべきだ。私からすれば、そもそもそういった疑問を持つこと自体可笑しいし、不謹慎なのだ。」
椅子をくるりと回転させ、完全に男性の方を向いた。そして博士はさらに続ける。
「良いか?我々は自然の流れを助ける役割を担っている。それだけだ。そしてこの事業自体が人類の発展に直接寄与しているのだ。だからこそ多額の予算を使って効率を最大限に求め、『最高』の教育環境を準備して『最高』の人材を世に送り出そうとしているのだ。この素晴らしい哲学を理解しなければならない。現に世論もこの施設に大きな期待を寄せている。それを忘れていないだろうな」
「しかし、それはクローンを取捨選択し、大半を『不良品』を処分していることを知ってのことなのでしょうか…」
ジロリと博士が男の方を睨んだ。
「なんだ、この崇高な理念を理解できないというのか」
「いえ、理解できます。できますが、多少引っかかる部分があると申しますか…」
博士はみるみる不機嫌な顔つきになっていった。
「莫迦か。そこを考える時点でお前は凡人なんだ。自分が上の人間だという自覚をしっかり持て。良いか。ここではクローンを人間として扱っては駄目だ。あくまでデータだ。研究対象なのだ。」
サングラスをかけているものの、男が今複雑な表情を浮かべているのがありありと分かる。その表情が癪に障ったのか、博士の語調は強くなった。
「分かるか分からないかでは無い。分かるように努力するのだ」
と博士はそう言い放った。
「は、はい、仰る通りです。失礼します」
焦ったように答え、逃げるように男は出て行った。
この研究室には博士1人となった。
「この事業に少しでも疑問を持ち出すと終わりだな」
博士がポツリと呟いた。一瞬の沈黙。
「…そろそろ、『あれ』も替え時かもしれん…」
そう呟いて深く溜息をつき、パソコンへまた向かいまた何かの作業をし始めた。

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