見出し画像

【鹿児島県】与論島 古川誠二先生が語る離島医療~島民と深く関わり、その人の人生を診る医療~◆Vol.1 #file7

こんにちは!離島医療人物図鑑の古都です!今回は、鹿児島県の与論島で30年以上も島の医療を支えてきた古川誠二先生にインタビューを実施し、古川先生の体験を語っていただきました。


今回の第1弾記事では、古川先生のご経験と、離島医療の魅力についてご紹介します。


古川先生の記事の連載は第3弾まで続きますのでお楽しみに!

専門を作らない医師・古川誠二先生。与論島でパナウル診療所を開業し30年。

----先生のご専門を教えていただけますか?
 

よく聞かれるのですが、「専門はありません」と答えています。

専門をつくらないようにしたいと思い、専門医でない医者を目指しました。今はそういう医者のことを、総合診療医やプライマリ・ケア医と呼ぶようになってますので、プライマリ・ケア医というのを、自分の専門と自称しております。

画像5


 昭和51年に医学部を卒業しましたので、ほぼ50年近く医者をしております。実は、つい最近現役引退ということで閉院をしたんですけれど、鹿児島県の島群、与論町でパナウル診療所というのを開業して30年ほどです。その前の3年間ほどは与論町立診療所に勤めておりましたので、与論町が私の本拠地ということになりますね。

画像4


与論島の魅力

---与論島の魅力につきまして、お話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか? 

実は与論島にはですね、仕事で来る前に2回ほど来たことがあってですね。その時に、もうすでに与論島というのは、すごく自然が綺麗な島だなと思っていました。非常に自然の美しいところです。それに、2回ほど来た時に、もう既に知り合いが出来ていました。一度島に来たらもうみんな友達という感じで、島の人に大歓迎を受けました。与論島の魅力は、自然と、そこに生活する人々だと思います。

画像3

地域全体を見渡せるのが与論島で働くことの魅力。

----離島医療に先生が関わっていく中で、感じている魅力を教えていただいてもよろしいでしょうか?


 まずは今言ったような素晴らしい自然と人々と一緒に暮らしながら、その場所で、仕事が出来るのが、最大の魅力ではあります。


 離島では専門医も必要なんですけれど、むしろ専門医よりはかかりつけ医のような、なんでも相談できる医者、私が目指していたプライマリ・ケア医のような医者が必要とされているということで、私の仕事場としてはすごく最適の場所だということですね。


 それからプライマリ・ケア医は、病気を診るだけではなくて、その人の人生を診る、そしてその地域を診るということです。

 与論島は人口5300人ほどで周囲が20㎞あまりの非常に小さな一つの島ですので、全体を見渡せるというか、与論島の住民の人のほとんどみんなを診ることが出来る、関わることが出来るという意味でも、自分の仕事がどういうふうに島の人達に役に立っているかとか、どんなところがうまくいっていないかとか、全てが見られます。

画像1

離島という一つの医療圏で、島民の人たちの人生を診る。そして、最期を見届ける。

 離島という一つの医療圏です。その地域を診ながら、その人たちと一緒に生活をして、そしてその人達の人生を診る。 

 与論島に33年いますが、たかが33年です。私は患者さんを家族と一緒に最期までを見届ける、在宅看取りということをしてきました。300人ほど看取りをさせていただいて、その中で印象に残ってるのが、肝硬変の女性の方で、血圧が測れないほどショックに近いくらいの低血圧になっているのに、息を引き取る前にサンキューベリーマッチといった人がいたんです。

 与論では、与論語で「とーとぅがなし」(ありがとうという意味)とよく言うのですが、その方は自宅で最期を迎えて、その瞬間に「サンキューベリーマッチ」と言いました。これは私だけではなく、親族はみな覚えていて。それからは年賀状に毎年、「先生、うちの姉は亡くなる前にサンキューベリーマッチといったね。」そういうことを書いてきてくれます。

 与論の場合は、人生の最期を迎えるかたちが今まで他で医療に携わってきたところとは全然違うので、人を助けたというよりはむしろ、その人の最期を見届けたというのが一番のいい印象です。


 今でも往診の時に、自宅で看取った患者さんの家の前を通りながら往診に行くので、患者さんが住んでいた家を見るたびに、その患者さんのことを思い出しながら往診に向かっています。思い出がありすぎて、何日でも話していたいくらいです。

古川先生が体験した与論島での救急搬送。
離島での救急搬送は、医療者のみならず外部の人との協力があってこそ。

 離島では、救急の場合は急患搬送を色んな手段でします。その時に船で行かせてあげるような状態をつくったり、あとは定期の飛行機があればその飛行機に乗せてあげられる状態をつくったりします。


 私無しで患者さんとご家族だけで行けそうなときは、飛び立つ前まで空港の特別室で患者さんと一緒にいて、その後は乗務員の人にお任せして、そして搬送先に着いたら連絡してもらうということで、空港の方には良く理解して頂いていました。

 自衛隊の飛行機は私が乗って行かないと搬送ができないので、私も乗っていきます。今はドクターヘリがありますので、だいぶ楽になりましまが、やっぱり自分で苦労して搬送した患者さんのことは非常に深い思い出になっています。

 ある時は台風のときだったかな。船ももちろん欠航して、定期便も欠航。心筋梗塞の人でどうしても搬送したかったので、最終的に知り合いにセスナ機をお願いしました。セスナ機はわりと風に強いので飛んできていただいて、患者さんを乗せたら、もう一度パイロットの人が「先生飛んでいいのか」と私に聞いたので、「いけいけー!」と言って飛んで行きました。救患搬送では沢山の思い出があります。このような急患搬送は離島ならではのことです。


 次回の記事では、古川先生が強くやりがいを感じたエピソードを詳しくお話していただきます。ご期待ください!

記事を書いた人

画像2

古都遥
聖路加国際大学看護学部看護学科4年
小笠原諸島・父島に行ったことを機に離島医療に興味を持つ。離島で活躍できる看護師を目指して日々勉強中。

与論町について


よろしければサポートをお願いします!いただいたサポートが記事の作成、取材費用になります!ありがとうございます!