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性別適合手術したら認めてやる!って暴力だと思うよ

ある者は「手術をしていなければ、それはただの異性装だろ?」と言い、またある者は「性別が自分にはないと口にしただけでなぜ叱られなければならないのか」と憤慨し、またある者は「手術しない当事者は本物とはいえない。一緒にされたくない。」と見下したように言う。

このある者とは、一人ではなく、むしろ世間に多数存在する声であり、勝手の自分もまた上にあげたような言葉を声に出して、時には当事者本人に直接ぶつけてきたものだ。

そこに悪気があろうとなかろうと、自分でない誰かの存在を無かった事にしてしまうとんでもない事には違いないのだけれど、


自分が理解できる範囲でしか、人は他人を理解できない。だから、人はその人の中にある物差しで様々な形の図形を、無理矢理真っ直ぐにして理解しようとする。そして、理解したつもりになる。

しかし、それはその人の物差しに合わせて無理やり形作られた全くの別物にしかならない。その物差しにかかればどんな形も全部同じ直線に様変わりさせられてしまうのだ。

そうして、そんな形ではないはずの自分は、その人の物差しに合わせた形のものとして理解され、語られ広がってゆき、いずれそれこそが正しい形だと言われるようになる。

そうして出来上がった規範には、自分を見出す事ができず、元の形の自分であろうとすると、周りから「おかしい」「偽物だ」と言われ、時には「変態」とか「犯罪予備軍」など暴言を浴びせられるのだ。

しかし、それはあくまで理解できない経験を持たない者の物差しに合わないというだけで、彼らはもともと様々な形を生まれた時から持ち合わせて生きている。

それに対して、自分の物差しの形しか見られない、認められない、だから自分の物差しに、あなた方が合わせたらいい!というのは、いかに植民地的な発想かを省みなければならない。

私自分、自分では理解できない他人のことなど山ほどある。それを素直に受け止める事、そして他人の分からない在り方や経験を、自分の物差しで無理くり形を変えないようにする事が、当事者でない私含め、多くの方に求められる姿なのではないだろうか。

仕事終わりに娘たちと散歩をしていると、どことなくトランスジェンダーフラッグにも見える夕焼け空が振り向いた先に広がっていた。

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