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トラウマリカバリーn=1

性犯罪のお話があるので辛い方は読まないで


(有料とあるけど全部無料です。
お気に召したらサポートという名の投げ銭でお願いします。)

あの人に比べたら私がされたことなんて
大したことがない。
私みたいな人が言うなんて、おこがましいんじゃないか。
そう思ってきたけれど、私は私で傷付いたし
私の魂は数十年をかけて生き返ろうとしているし
その日々を振り返って書くことで誰かの助けになるかもしれないじゃん。
そう思って書くことにした。
思いつくままに書いた、乱雑な文章だけどもね。

最初の記憶

保育園が終わる時間に定時ダッシュしないと間に合わない母が
二次保育というものを知って利用した。
どこかのおばあさんが子どもたちを数人連れて帰る。
その家で、実の親が返ってくるのを待つという仕組みだ。
有償だとは思うけど、当時はどうだったんだろう。

いつも最後のお迎えだった私は早い時間に保育園から帰れるようになったが
人見知りのひどい私には、
全く知らない小さな子どもたちと一緒に和室に突っ込まれて
夕方のアニメ番組を黙って見させられるだけの
結構苦痛溢れる時間だった。
当時は5歳かな、6歳かな。

幼児だ。

明らかに幼児だ。

その家にいたお兄さん、なのか、おじさんなのか。
でも、平日の夕方に家にいたのだから
大学生とかなのかもしれない。
ただ、ひげがあった気がする。ジョリジョリするような。

その人に呼ばれた。
隣の、その人の部屋でもテレビ見られるよと。
違う番組でも見せてくれるかと思ったけれど
元いた部屋と同じ「巨人の星」だった。
暗いまま、テレビの画面だけが明るかった。

肩を叩かれたので振り返った
私の顔に陰部を擦り付けた。

私は父もいなければ男兄弟もおらず
何が起きたのか、まるで分らなかった。
ただ、「いやなことだ」と感じただけだった。
済んだら「もういいよ、あっちの部屋に行きな」と言われ
明るい部屋に戻された。

他の、私が隣の部屋に行ったことにも気づかない
もっと小さな知らない子たちのいる部屋へ。

その後のことはあまり覚えていない。
「もう行きたくない」
と頑なに言い張ったことと、
親には「わがままな子」と困った顔をされたことくらい。
もう行かなくて済んだはずだった。
時系列がよく分からないが、まだ預けられていたのだろうか。

私の七五三

母の着物を着るというので私は大喜びだった。
母のことが、大好きだったのだ。
ご機嫌で、でも照れくさくて、
美容院で髪を結ってもらう。
口紅をちょんちょんと載せてもらって
ずいぶんとお姉さんになった気がしたものだ。

仲良しの男の子とそのお母さんもお祝いに駆け付けてくれて
一緒にお宮に行った。

不思議な儀式だなあなんて思いながら祈禱が終わり
晴れ着の子がたくさんいた境内にいたら
「あらあ!」
と母が言う。
預けられた家のおばあさんと、
その家の、
あいつがいたのだ。
ちょっといいようなカメラを持って。

「ちょうどいいから撮ってもらいなさいよ」
となるのは当然の流れだろう。

母は私が「いやなこと」をされたことを知らない。
私のわがままだとしか知らないのだから。

若く、田舎から出てきた、純朴な母。
硬い表情で写真に納まった。

「にこりともしないで、かわいくない子」

と母に貶されもした。

七五三の写真は、ずっと私の家に飾られた。

性犯罪者が撮った、私の、おめかしした写真。

そして私がされたことの重大さに気付いたのは
もっとずっと後のことだった。

買われた私

小学生になって、放課後は学童保育に預けられた。
今と違って17時くらいに自分で家に帰るのだが、
私の家は学童の隣だった。

家で待っていることももちろんあるが
外で遊びながら母が待つこともあった。
ある日、私はおままごとで草を刻むのが楽しくなり
切り上げられなくなった。
1人で黙々と公園の隅っこで何かの実験のように草を刻む。
公園の隣では木造の民家が建築中だった。
毎日変わっていくのを眺めるのも好きだった。
その日、たまたま残っていたらしい作業員風の人が
声をかけてきた。

「中、見てみる?」

毎日眺めていたのを知っていたのかもしれない。
赤毛の、痩せた、みすぼらしい男だった。

好奇心だけで生きている姿勢は基本的に今も変わらないが
危険を嗅ぎ分けるほど長く生きてない7歳の私は
「うん」
と素直に頷いて、そこに入った。
壁はまだなかった。
柱と、筋交いだけだったような気もする。
夕焼けの色に染まっていた建築現場。

お小遣いの額を聞かれた。
「1日50円」(今思うと多いな)
「ふーん、じゃあ100円あげるからこっちおいで」
もらわなくても工事現場なんだから付いて行っただろう。

そこで私は股間をさすられたり
抱き上げられたりした。
何をされてるのか、また分からなかった。

保育園の頃よりかは
「何かいけないことをされている」
のは分かったが、怖くて何もできず
されるがままだった。

外から見えるし、通り沿いだったおかげか
下着を脱がされることもなく、
服の上から触られた程度ではあったけれど
終わって解放されてからもらった100円玉は
汚い気がして側溝に捨てた。

抱えきれなかった私は親友に話した。
その子こそ抱えきれなかったろう。
7歳でしかなかったのだ。
彼女も、私も。
彼女は自分の母親に話し、そのお母さんは驚き
学童保育に連絡し、そこから私の母に連絡がいったのだろう。

面目を潰された母は私を玄関先に立たせて
何があったかを問い詰めた。

汚いものを見るような目だと私は感じた。
あの日、捨てられたのだ、私はきっと。

私は衣食住を与えられていても
守られていると実感できなくなった。
それは、絶対的貧困と相対的貧困の話みたいだ。
「育ててもらったじゃん」
と言われるだろう。

実際に言われてきた。
誰にでも。

外から見たら
「わがまま放題の娘に手を焼きながらも愛情たっぷりに育てている母」
に見える。
それは今も分かる。

守ったつもりになっている、
守っているつもりの母。

衣食住さえ与えていたら大丈夫と思っている
単純な世界を生きる母。

それでも私は捨てられたと感じた。
私は、自分を大切な存在だと考えることができなくなった。

そもそも、私は「女の子でがっかりした」と言われて育った。
「あなたが女の子だったからパパは名前を付けなかったのよ」
「あなたが産まれた瞬間に女の子だと聞いて、パパに心の中で謝った」
そんなことを聞かされて育った。

そんなことがあった後で、
私が自分を大切にしなくなるなんて当然の帰結だ。

あたしがおんなのこじゃなかったら、
パパとママはりこんしなかったのかな?

そう思ったこともたくさんあった。

花魁や女郎、差別の話

小さい頃に「陽暉楼」(多分)を見た。

辛いときに「なんちゃあない」と声に出して言う。
そうしているうちに楽になってくる。
みたいなことを姉さんが新入りに言う。
以来、私はずっと言ってきた。
言いながら何度泣いたことか。

まだ小学生だったように思う。
そんな子どもが、自分を女郎と重ねて
「なんちゃあない」
と呟いて生きていたなんて。

母と私だけの家で育ったせいか
私は人に頼れない。
頼るのが上手じゃない。
物理的に誰もいなかったから。

なんて言ってたけどもしかして、
助けてもらえた経験がないのかも。
子どもの頃から。
身長の高い子だった。
大人びた顔つきだった。
だから「しっかりしてる」と言われ続けた。

「早く大きくなってママを助けなきゃね」
とも言われ続けた。
私は、しっかりしなきゃいけなかった。
ママが大好きだったから。

人種や性別で差別することが
世界で起きていると知ったのは中学生くらいか。
そういう映画や本に触れることで
私は烙印を押されたところからの生き延び方を
知ろうとしていたのかもしれない。
顔の上げ方。
胸の張り方。
笑顔の作り方。
そういうものたちを。
人間の尊厳を持とうとしていたのかもしれない。
そうじゃない、生まれる瞬間から持っていたものを
取り戻そうとして、だ。
私はどうしようもなくひとりで、しっかりしなきゃいけなかった。
大好きなママのために。

痴漢にあって考えた

中学生の時に、混んでいる電車の先頭車両で
運転士さんを眺めながらぎゅうぎゅう押されているのを我慢していた。
横を見ても人がいっぱいいるしずっと混んでいるんだろうと思っていた。
ふと気付くと後ろの汚いおじさんの動きがおかしい。
鼻息も荒い。

振り返ると電車は空いていた。
私一人が、そのおじさんに押さえつけられていたのだ。
「何すんだよ」
と文句を言ったら
「ちっ、もう少しだったのに」
と言われてしまった。

何がもう少しだったんだろう。
それだって、私はあまりよく分かっていなかった。

横にいた大人の皆さんは気付いてたのだろう。
電車を降りたら
「大丈夫でしたか?気付いてたんですけど・・・」
と声を掛けられた。
きっと彼女は私がその言葉にもっと傷付けられたなんて
思っていないだろう。

「じゃあなぜ誰も助けなかったのか」

私は13歳だったのだ。
子どもだったのだ。
大人は、そこにいた。
まだスマホもなかった。

隣にいた大人たちは何をしていたのか。

スマホもなかった昔から、他人なんて変わりはしないのだ。
面倒だから、知らない子どもが痴漢に遭っていても
知らんぷりをするのだ。
都会だからじゃない。
子どもは護る対象ではなく、おもちゃでしかないのかもしれない。
そんなことは、あってもよいのだろうか。

色気のあるお子さん

小さい頃からそんな目に遭ってきた。

なんで?
私の何が悪いの?
なんで私はそんな目に遭うんだろう。
私の一体何がそういうことを惹き起こすんだろう。

と思っていたけれど、
ある日、担任の先生が答えをくれた。

「いやぁ、色気のあるお子さんですね」

家庭訪問での第一声がそれである。
今だったら大問題になりそうな発言だけれど
まるでそういう人じゃなかったし
そのあたりの信頼関係は昔ながらの教師と生徒のそれである。

そもそも、その一言で自分の持つ要らない才能に気付けたので
私にとっては問題発言どころか悩みに対しての解答が降ってきた!くらい
目を開かせてくれた言葉だった。

見た目もごく普通。
中肉中背ずんぐりむっくり。
きれいでもかわいくもない。
笑うとかわいいのは人類共通なので置いておいて
基本的に人見知りなので笑わない。
どっちかというと睨みつけるような子ども。
一言で言えば「かわいくない」。
というか親戚とかには既に言われてた。

だから、余計に
自分が性的な対象として存在する
ことがイメージできなかった。

そんな私に「色気」がある?
私の想像する「色気」とは別に何かがあるんだろう。
それを私はコントロールできるようにすればいいのかな。

でもどうやって?

とにかく、私には謎の「色気」とやらがあるようなので
変なものを近寄せないように気を付けなくてはならないと分かった。
寂しい子どもを狙う大人など、山ほどいるのだから。

歌舞伎町のこども

勉強はよくできたが、
別に順位のためや進学のために勉強していたわけではない。
単に新しいことを知るのが楽しかった。
ただ、私は、家でずっとひとりだった。
小学生の頃からお金を置かれて、一人でご飯を食べていた。
兄弟も姉妹もいないので、一人で。
途中から、犬と猫がいたけれど、一緒に食卓を囲むでもない。

こういうところからも、私は大切にされるべき人間ではないと
毎日毎日、少しずつきっと傷ついてしまった。
寂しさは人を蝕むのだ。
この日々から私は学んだ。

まだ子どもであった私が寂しく怖い毎日を過ごすときに
心の支えとしたものは、
「家の前に交番がある」
ということだった。

家の中に、大人はいなかった。常に。

年頃になった頃、母はよく言った。
「あなたに何かするような奴がいたら、この手で殺す」
母も、幼児であった私が既に誰かの性の対象になっていたなんて
想像もしなかったのだ。
対象になっていたどころか、被害に遭っていたなんて
これっぽっちも想像しなかったに違いない。

だから、年頃になった私に言ったのだろう。
「何かあったら言うね」
と言ったが、私にとっては守ってもらえないという実績を
積み上げ続けている母にどうしたら頼れたのだろう。
あの日、汚いものを見る目で私を見た母に。

親が居酒屋を経営し、夜はやはり家に一人の子が
「塾の帰りにオジサンたちがご飯食べ行こうってすごい声かけてくる」
「一緒に遊びに行ってみない?」
と声をかけてきた。

私が家にいてもいなくても、
母は気付かないのだと気付いた。
それから私は毎日歌舞伎町にいた。

たくさんの人間を見た。
学生、サラリーマン、性別が分からない人、
けが人、ヤンキー、ロッカー、チンピラ。
みんな酔っ払い。

歌舞伎町は、誰も拒まない街だと感じた。
こんな私でも「いてもいい場所」だった。
眠くなったら家に帰った。
学校へは行かなくなった。
受験の話ばかりだし、偏差値の話ばかりだ。
つまらなかった。
勉強がしたかったのに。
授業を受けたかったのに。

歌舞伎町で面白い大人を眺めていた。
ただ、ぼんやりと。
みんな何かを背負っていそうなのに
誰も何も言わない。
友達でも、知り合いですらない。
ただ、広い階段のあちこちに散らばって座っている。
それだけだけど、私はひどく安心した。
人の気配に。
大人の存在に。
守ってくれるわけではなくても
誰かがいることで安心していた。

誰かがいるということ

私は児童相談所に一時保護された。
一時保護されている間、私はとても楽しかった。

制限されていることはあるのだけれど、
食べるものの心配をしないことや、
もし病気になっても治療してくれること、
とにかく面倒を見てもらえることで安心した。

荒んでいた顔つきが、にこやかに、しかも
衣食住が足りたもので丸々と太っている姿を見て
面会に来た担任の先生が泣いたほどだ。

それから私は養護施設に入った。
今も先生とは交流がある。
その先生がいて、空きがあって、引き受けてくれなかったら、
私はその施設には行けなかった。
もう少し制限のある施設に入れられていただろう。
半年くらいしか一緒に過ごしていないけれど、
先生は今も「あなたのことが大好き!」と言ってくださる。

転んでもただじゃ起きない強欲さが、きっと私にはある。

性的であること

性的に見られるのを嫌悪していたが
なんとなくマリリン・モンローの伝記を読んで
「それを使う手もある」
と気付いた。

私は、被害者でいたくなかった。
復讐したかった。

小さな私を性的に見るような「男」に。
そんなくだらない人間に負けるなんて
自分に許していいのか。

うつむいて歩くのはあっちの方で
私はお天道様の下を歩いていい。
身体を大切にできないけれど、
私は私の魂を大切にしていたのかもしれない。
いや、そういう男性の目当てである「身体」を
大切にしないことで復讐していたのかもしれない。
「お前はゴミを喜んで食べてるのか」
みたいに。

そうすることで、私は魂を守ったのかもしれない。
「ずっと一緒にいたいね」
と言ったら
「そうか、そうだな、じゃあ結婚するか」
と幼児のような提案をした人と私は最初の結婚をした。
とても幸せだった。

けれど、何かの時に
「それでこそお前だ」
と言われた時に、私はなぜか息ができなくなった。
囚われの身になった気がしたのだ。

「私」の型をこの人が作ってる!
毎日変わっていく私を?

その後、ある人に
「幸せか」
と問われて即答できない自分に絶望して
私は出奔してしまった。
子ども達を置いて。

中卒の私が彼らを普通に生活させることができないし
夫は何でもできる人だったから大丈夫だと信じて。
そんな家族との暮らしを幸せだと即答できなかった自分を恥じて。

日々刻々と変わっていく私でも
私のままでいいと言ってくれる場所をずっと探し続けた。
ただ、大事にされた実感を持てない私には
大事にしてくれた人を大事にする方法が、
その暮らしを守る方法が、皆目分からなかった。

ゆがむ心

私には直したくて完全には直せていない、考えの癖がある。
セックスしている時だけは、愛されてるんじゃないかと錯覚する
よくある勘違いだ。

抱きしめられていると、きっとオキシトシンが出るのだろう。
とても安心した。肌を触れ合わせると出てくるホルモンだ。
そういうことが分かっていても、触れ合わない時間が長くなると辛かった。

頭で分かっていること。
心が求めていること。
ホルモンなんてコントロールできない。
自分の中のアンビバレントな感情を持て余した。

セックスしない間柄は不安にしかならなかった。
セックスしない夫は「私を愛していない夫」だった。
セックスしなくても、私は安心するまで
それがどんなに長い時間であっても抱き締めていてほしかった。
安心させてほしかった。
誰かに守られたかった。

本当に小さな子どもの頃にしてもらいたかったように。

14,5歳で見た映画に
「あなたがいたら 少女リンダ」(原題:Wish You Were Here)
というのがあり、なぜか私は自分を重ねた。
その後ビデオやDVDその他のメディアでも見たことがない。
だけど、私はしょっちゅう呟いた。
「Wish you were here」
と。
Youが誰かは分からないけれど、
私にとってのYouを探さなくてはいけないと思った。
もうとうに大人になっている私を守ってくれる誰かを。
自分で自分を守るには、守られている安心が、まず必要なのだ、きっと。

安心できない

そんな私なので夫となった人のところで
少し安心しても少しでしかない。

愛されるべき人間じゃないから逃げ出してしまう。
愛され慣れなくて、不安になる。
何をGiveしたらいいのか分からない。
距離感も分からない。

愛され慣れている人は愛を疑わない。

私が自分を大事にできないから、
大事にされていることにも鈍感になっていた。
自分が傷つくことにだけ繊細で
人から愛されること、人を傷つけることには鈍感。
本当につまらない、くだらない人間だ。

「あなたを大切に思うから」
と私を縛り付けた人が
そう言いながら私を捨て、汚いものを見るように見た。

このダブルバインドの葛藤の中で
私はうまく生きられなかった。

きっと、幸せだったであろう生活をたくさん捨ててしまった。
ダブルバインドは変わりないとして
性被害の事件がなければ私は少し楽だったのだろうか。
どうだろう。
分からない。
今来た道しか生きてきてないから。

傷だらけ

そりゃあ心は傷だらけでしょう・・・と思われるけど
実は身体も傷がある。
自傷癖だ。
心が簡単には癒されず苦しい私は
自ら付けた傷が治るのを心強く思っていた。

「治るんだ」
「私って生きてるんだ」
そんな風に。

根性焼(時代)の跡や、切り傷、
その他のやけど、墨汁を垂らして針で突いてみた墨。
小さな入れ墨(自作)もあったけれど、
温泉大好きすぎて入れないのが不満で自分でやけどで上書き。

もっと遡ったら中学生で開けたピアスもそうなのかもしれない。
心の傷は見えないから、誰からも心配されない。
だから、見える傷にしたかったのかも。
「大丈夫?」
と聞いてほしかったのかな。
どうせ「大丈夫」と答えるのに。

それ以外の答え方を知らないのに。

しっかりした大人びた表情をする子どもだった私。
見た目が10割。
私はしっかりもしてないし、大人びてもいない。
そのイメージに合わせるのに必死だっただけ。
子どもでいられる時間が多くなかっただけだ。

大事なものは目に見えない。
きっと太古の昔からいろいろな言葉で言われてきただろう。
「かんじんなものは目に見えないんだよ」
「L'essentiel est invisible pour les yeux.」
 「星の王子様」サン・テグジュペリ
かんじんなもの、というよりも、必要不可欠なものなんだろうけど
そこは児童書だからまあいいとして
「かんじんかなめなもの」にしてもいいのかな。

私の心など興味を持つ人はいないので
見えるところに、私の心を表すような傷を作っておいたのだろう。

コトバを出しても、子どものコトバなど
誰も真摯に向き合わない時代だった。

傷が増えていくに従って私は裸になることを嫌がった。
ただ、裸になる機会が訪れると
「こんなんでも好きになってくれる!」となり
思っていたのと逆に事態は悪化していったような気がする。
まあ、だからと言って私がその人を好きになるわけでもないのだけれど。

大人になりたい=非性的になりたい

中学生の頃に学校の先生に
「早く30代になりたい」
と言った。先生は大笑いした。

当時は「おばさん」であることは死刑宣告のようなくらい
年を取ることに否定的な社会だった。

私の思春期が辛すぎるのもあるけれど、
「30代なら働いて家も出て誰からも性的に見られず
夢の職業である『お母さん』になって暮らしているだろう」
と考えていたと思われる。

しかし、時代はどんどん子どもじみていった。
誰も背伸びせず、大人になることを忌避するような。
30歳になったら熟女くらいのイメージだったのに
半世紀生きている私ですら性的に見る人がいる。

世界は広い。

それでも十分すぎるほどには楽になった。
性的に見られることが減った。
というより私が年を取ったということ
言ってみればババアになったということで
安心しているというのが大きいかもしれない。

大きすぎる疑念

とにかく自信の持てない私。
ほめてくれる人はいっぱいいるし
お礼も言うけど、社交辞令なんだろうと思ってしまう。
よく出来たこともたくさんある。
それを並べて可視化して自分を褒めても
一瞬しかもたない。

疑い深いのだ。
自分のことについては。
他人の言葉はすぐに信じてしまうくせに。

コトバよ私を救って

なぜ差別はあるのか。
これは昔からよく考えていたテーマで
今も考える。

区別することが、悪意を持った差別になるのは
一体なぜなのか。

私は差別しない。
と言いたいが、差別する人を差別しちゃう気がする。
見下しちゃう気がする。
そんなモヤモヤを小学校高学年くらいに
よく日記に書いていた。

この言語化は私を良い方に導いてくれたと思う。
差別するのは、怖いからで、
怖いのは相手をよく知らないからじゃないかと
13歳くらいの私は考えた。

じゃあ、知ったら怖いことが減るかもしれない。
知ることで、嫌な気持ちも減るかもしれない。

私が何をされて、なぜそうされたのか。

自分がされた嫌なことを人に笑って話せるエリアまで浮上させる。
そのためにはたくさん考えて腑に落とさなくてはならない。

その話をいつ振られてもいいように
私は何度でも何度でも、それを反芻する。

フラッシュバック、怒り、震え、涙。
それでも何度も何度も私はグロテスクな塊を
毎日のように素手で掴んで慣れるまで続けた。

幼児だった私が、子どもになっただけだけれど
走って逃げられるようになり
武器を持って反撃に出られるようにもなり
イメージの中で私は加害者をやっつけられるようになった。

思いを言葉にすることは、私に力を与えてくれた。
こうしてここに書く言葉もそうだ。
人に伝えることで、救われることもある。

なりたかったもの

私は今も、人間関係をうまく結べない。

友達は多くない。多ければいいわけではないだろうし
年齢的にも「一緒にトイレに行くようなお友達」は
もう要らないからママ友達ももういない。

たくさんの人に覚えててもらえたかもしれないし
好かれたり嫌われたりしたと思う。

結婚しても、離婚した。

ただ、私が育てた子ども達はとても良い子に育った。
高学歴とかそういうのでなく、正義感が強く、とても優しい。
私の人生で誇れるものがあるとしたならば、
この子達。

そう、私は「お母さん」になりたかった。
子どもを大切にする「お母さん」に。

若くして母になったり、ひとり親になったりしたこともあり、
私は当初、母を頼っていた。
仲も良かった。
母の顔色をうかがっていた。
そうしていれば私や夫や子ども達に優しくしてくれた。
眉を顰められるようなことをしなければ良かった。

ある時に、自分の生きづらさの根本のところに母との関係がある気がして
思いのたけをすべて書いた手紙を出した。

母は謝ってきたが何かの拍子に
「謝ったじゃないの!何度謝れば気が済むのよ!」
と怒鳴った。

最後の離婚をして、母のところに少しだけ同居したときに
私は母の言うことを聞かなかった。
「職場と家は遠い方がいい。気分転換ができるから」
というものだ。

ひとりでご飯を食べ続けた経験上、私は絶対に家族でご飯を食べたかった。
一緒にご飯を食べたら家族、くらいの勢いで必ず一緒に食べた。

私が親にされたことを、絶対に子どもにしたくなかった。

母はきっとそれを「自分の育児の全否定」と受け取っただろう。
その通りだ。正しい受け止め方をされて良かった。

しかし、一応努力してきたであろう本人としては辛かったのだろう。

とても辛く当たられ子ども達から笑顔が消えた。
それに気付いてからすぐに家を出た。
「ちゃあちゃんに気を遣ってあげて」
など子どもに言わずに
機嫌で周囲をコントロールする大人を見せることの不利益を考えたら
今考えても、ひもじい思いをしてでも家を出たのは正解だった。

それから私は母と会っていない。

見かけたことはあるが、向こうが顔を隠して走り去ったのを見ただけだ。
母を捨てることで、私はやっと、
なりたかった「お母さん」になれた気がした。
夢が叶った。

人に出逢う

ある日、私は恋人と出会った。


「俺は生き延びるために生きてるわけじゃない。
幸せになるために生きてるんだ」
と言った、心から尊敬する彼と。

彼は病気も障害もあったけれど
そんなことは関係なく、私はまるごとの彼を愛した。
彼が心の底から尊敬し、心の底からかわいく思った。

彼はなんだか知らないけれど、
私をいつもかわいがってくれた。
うんと若かったというのに、いつもいつも。

私は、生きていてもいいし
かわいがられても、いいんじゃないか。
愛されていてもいいんじゃないの、もしかして。

そう感じることが、まさか、できてきそうだった。

人に傷付けられたなら
癒すのは人なのかなと、ぼんやりと感じながら。

彼の偉大さは、数十年ずっとそんなことを思えなかった私にそんなことを思わせることができたこと。

たとえ私を置いていっても、
そして死んで帰ってきても、
私が彼を大切に思うのは、これが理由のひとつ。

じゃあ誰かと会わなかったら回復できないのかよ。
そう考えなくもないけれど、
傷付きながらも誰かと出会って、
傷付きながらも、絆創膏を貼り続けていくしか
ないんじゃないか。
人でしか癒されない気がする。

誰かが造った創作物でも、
それで癒されてもいいけど、
それはやはり人がつくったものだから。

いつか

育ち直すには3倍の時間がかかるんだっけ。
何倍だか忘れてしまったけれど、とにかく失った時間よりはるかにかかることは想像だけでもわかる。

傷付きやすく感受性の強い子が、よりによって鈍感な親に育てられ幾重にも傷付く運の悪さ。
私におきたことは、そんな程度のことだと思う。

傷付いたことがあるから、同じような体験をした人に心を寄せることができる。
型にはめられる恐怖を知っているから、こうしたら良くなるよ!と
もちろん強要もしない。
できないことも知っているから。

禍福は糾える縄の如しとはよく言ったものだ。

でも、禍や傷など、ない方がいい。

子ども時代のやり直しは、できない。
大人の失敗のやり直しは、それに比べてどんなにか容易だろう。
子ども時代は二度と来ない。

子ども時代に、尊厳を傷つけられるようなことは、
あってはいけない。

大人は、子どもをそういう目に遭わせてはいけない。

心を殺させるようなことをする大人を、できるだけ周囲から排除して
子どもという小さきものを社会は全力で守ってほしい。

良い大人は、悪い大人の100倍はいる。

でも、ほんのごくごく一部の悪い人のせいで人生を棒に振ることは
あるのだ。
全部がダメになるほど傷付くことは、あるのだ。

「そんなことで」なんかじゃ、絶対にない。

他者は「そんなこと」と言っちゃいけない。

「そんなこと」にできるのは、被害者本人だけだ。

傷付いて、立つこともままならず、それどころか座るのも無理ということもある。
息をするのもやっと。
それでも、いつか呼吸が楽になるかもしれない。
座って、視点が変わるかもしれない。
立ち上がって歩き出せるかもしれない。

そして本当にいつか、いつか、「そんなこと」と言える日がくるかもしれない。

加害者を許す必要はなくても、自分を赦せる日が来てほしい。
憎み続けなくてもいいから、加害するような人間を見下せるように
自分を高みに持っていく気持ちに、いつかなれたら。
どのくらいの期間が必要かなんて分からない。

でも、いつか、という希望だけは捨てないでいてほしいと、
希望なんて持ってなかった私が言うのもおかしいけれど
エールと言えるか分からないエールをすみっこから送るよ。

じゃあまたね。

追伸

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