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映画11「梅切らぬバカ」

和島香太郎さん監督作。


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多分、忠さんは知的障害と行動障害を伴う自閉症。
行動障害があると、なかなか社会生活が難しかったりする。
だから、「見えない場所」に暮らしていたりする。
「見えない」ようにして安心しているのは、大多数の
「健常」の人たち。

私もその健常の人たちに入っている。
たとえ私が障害者だとしても。

グループホームで騒音が、って話なんか
じゃあ、徘徊老人が騒がないんかいって話にもなる。
「そういうところ」じゃないところでも
騒音がひどいなんてのもよくある話。

だけど、「そういうところ」は分かりやすく責めやすい。

明日は我が身で、
私たちはいつ病気になっても障害を負っても
全くおかしくはない。

死んでしまった私の前の恋人は、
順風満帆、才能もあってこれから社会に貢献!
くらいの人だったが、その矢先に病に倒れて「障害者」になった。
みんな、明日は我が身、なのだ。

だけど、そんなことと向き合うのは怖いから
「そうならない」となぜか確信して生きている。
私もそうだ。

この映画は、特別に素晴らしい解決もなく
「自分が当事者になるまでは何一つ分からな」かった
「健常」の人たちを、ただ見ている。

言葉を獲得していないお子さん(といっても成人だが)の
手を握っているときに、
「彼女が言葉を獲得できていないのではなくて、私こそが彼女の言葉を獲得していないのではないか」
と考えたことがある。
私は私の言葉でしか話しかけることはできないけれど、
彼女の気に入っているものを渡すときや
彼女の手を握って体温を感じるときに
「ことば」に類するもので何か伝わることがあるといいなと思った。
「わからなくてごめんね」
と、そのときに私は声をかけた。

障害認定などの診断書は
「あれできないこれできない」と書き連ねるものが多い。
やはり言葉を獲得していない人の前で
保護者の方に確認していく。
そのときに
「できないばっかり言ってごめんね。あなたはすごくすてきな絵を描くのに」
と、やはり声をかけた。

私の方こそが「分からない」=「できない」んじゃないかって。
そんなことを思ったものだった。
何度も何度も。

小さい頃に脳性麻痺のおじさんにかわいがってもらった。
そういうこともあって、私は「障害の社会モデル」派だ。
これは、個人に障害があるわけではなく、
社会の方に障害があるという考え方、らしい。
だいぶ後からそういうものがあると知ったのだけれど。
「社会に対して障害が多いと感じる人」
でいいじゃんって、中学生くらいの私は思ったのだった。

段差があったら歩きづらい。
足が上がらない人が悪いの?
足が動かなくて車輪で代わりに動いてる人が悪いの?
永遠に若くて健康で病気もしない?
段差こそが障害なんじゃないの?

みんな、私も含めて
「すばらしいことだけれど、よそでやって」
「Not In My Back Yard (NIMBY)」
なんだよね。
だから、施設が驚くほど山奥にあったりする。
年老いた親は会いに行くのも大変で、
そして手元に置いて、そして先行き不安で心中することも
起きるのだ。
起きているのだ。

どうしていつまでも自分は若くて健康でぽっくり死ぬと思えるのか。
どうして年老いて病気や後遺障害を得るとは全く考えられないのか。
もちろん、私も含めて。

みんなに、見てほしい。
この映画は。

とは別に「当事者研究」と「社会モデル」。
読みたい本だらけで人生が足りない。
おしまい。


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