11月30日

季節が巡りました。

夏休みのほとんどを禅塾で過ごしたことで、静岡の実家に戻った時もそして神奈川の下宿先に戻った時も時折あの一ヶ月のことを思い出しました。朝起きたくない時、部屋の掃除が進まない時、勉強する手が止まる時、「自分が今禅塾にいたらどうしてただろうか」と想像するのでした。同時に老師の言った「寺を一歩でも出ればあなたたちは社会人であって修行のことは考えなくていいんです」というメッセージも思い出しました。だからこそ自分のしたいこと、それが朝いつまでも寝ていることであっても、部屋が散らかったまま放っておくことであっても、はたまた勉強なんてやめて好きなことばっかりやっていることであってもそれが本来の姿なら正しいということです。だから最近は、今までよりもちょっと自分勝手に生活しました。ちょっと生産性が下がったかもしれません。ちょっと人に迷惑かけたかもしれません。けれどとても楽でした。具体的な行動に落とし込まず、机に向かって「自分とは何か、人生どうしようか?」って悩んでいた自分はもうそこにはいなくてむしろ今ではそう言った問題意識が薄まっています。


こうした思考の変化が起きたのは禅塾での学習があったからだと強く思います。誰にも遮られずにただ一人で自分の抱える問題に向き合えたこと、そして問題に向き合う時間は修行している間にとどめて寺を出れば社会人として細かい問題を無視して生活するよう老師に教わったこと、この2点が今の自分を迷いなく押し進めてくれています。もし夏に禅塾に行ってなかったら今の自分はちょっとどころか、かなり周りの人に迷惑かけてたと思います。そう考えると初めは意味がないと思って申し込んだ禅塾での生活に意義を感じます。


11月の半ばになって自分はショートステイ中に老師からいただいたある要項を思い出しました。それは「臘八大接心」というものです。これは昔、お釈迦様が12月の初めに一週間ばかり飲まず食わず、山の中を修行してまわって悟りを開かれたという言い伝えにちなんで、12月初めの一週間生活のほとんどを座禅をはじめとする修行に当てるという行事です。入浴、髭剃り、爪切りは禁じられていて、食事や睡眠にも厳しい制限が課せられています。老師はこの行事を初めて体験した時を振り返って「接心を終えて外に出た時そこはもう自分が知っている世界じゃなかった」とおっしゃっていました。そして「本当に修行の世界を覗きたいなら一回来てみるといい」と言って要項の紙を渡してくださいました。当時はあまり積極的ではなかったのですが自分はなぜか縁を切るのが怖くてこの要項をiPhoneのフォルダに入れて起きました。そして思えば何回も読み直して考えていました。「これに参加したらまた自分はアップデートされるのかな、本当に世界変わって見えるのかな」ってうまく宣伝文句に乗せられていました。ただそんなことは関係なく、単純に夏休みの禅塾生活に対してはまだまだ自分は洗練されうると思ったし、中途半端に過ごした時間を「修行」として終わらせたくないと思ってもいました。


そこで老師にメールを送ってまたしてもこの世界にお邪魔することになりました。今日はもう京都に到着して喫茶店でコーヒーにしばらくの別れを告げています。実は昨日の夜、家をでて夜行バスの停留所に向かう時とても自分はネガティブになっていました。「今から一週間、普通に大学の講義に出席してたらどれだけ平和なことだろうか」とか「寒くて、眠くて、空腹で、そんな辛いところに行って何になるんだろう」とか負の思考があふれました。それでも当初のモチベーションである、自分探し的な興味は消えませんでした。先ほど店員さんが関西弁で自分にコーヒーを持ってきてくれるのを聞いて「京都来たんだな」って思いました。そして今、自分が2ヶ月前書き捨てたノートの続きに新しく何かを綴ろうとしているんだと思いました。


一週間後、自分が再びノートを書くときはもしかしたらとても病んでいるかもしれませんし、心機一転して自分が格段に成長しているかもしれませんし、何も変わっていないかもしれません。つまりこれからの一週間はある意味ではギャンブルで何も得ないかもしれませんし、かけがえないものを得るかもしれません。だから極限まで全力でやってこようって気持ちです今は。

ということで今日から修行生活vol.2です。

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