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ココロ ①

 赤ちゃんを、拾いました。肌が真っ白で、ぷくぷくしていて、淡い寝息のする、赤ちゃんを拾いました。


 その時の私はとにかく疲れていました。身体が重く、常にだるい。ただただ疲れたが口癖になっていました。高校を無事に卒業できた、そこまでは順調だったのです。そこまでは卒なく勉学をこなし、卒なく人間関係もこなせていました。特に問題も無かった、筈です。問題はその後でした。多分、就職してしまったのが間違いだったのだと思います。
 私は高校を卒業した後、そのまま就職しました。今考えると、少し調子にのっていたのかもしれません。世の中の渡り方とやらを十分自分は承知していて、自分はさっさと働いてお金を稼いで、さっさと結婚して、幸せな家庭を作って、いつか来る同窓会のお誘いにもウキウキしながら参加して、自分の娘の写真を同級生に見せつけて、自慢できると勝手に思い込んでいました。それに、大学に進学しても特にやりたいことなんてありませんでした。自分が更に学びたいことも、将来の夢も特になく、やりたいことも無かった、大学に進学する意味も分からなかったのです。
 その当時の私は母から大学に進学しろ、と強く言われていました。なんでもいいから大学に進学しろ、お金の心配はしなくていい、とりあえずでもいいから、等と大学という商品を猛アタックされていました。ですが、私は当然のようにその商品を断ったのです。

「お願いだから、大学に行って頂戴。お金なら全部出すから。あなたの好きなようにしていいから」

 母は背を向けて食事を摂る私にすがるように訴えていました。ですが、私は母のことが嫌いだった訳ではありません。むしろ好きの分類に入る方で、なんなら高校を卒業した後は働いて、母と一緒に住もうと考えているくらいでした。ただ、大学の話になったときだけ、私は決まって母に背を向けてしまっているのでした。
 将来は母と一緒に住んで、働きながら家にもお金を入れつつ、自分のための貯金もして、そのうち自立して……。それが私の理想でした。いきなり一人暮らしをする恐怖も母といればいらない恐怖感にもなる、それになにより、まだ母と一緒に居たいという気持ちも強かったのです。なんせ女手一つで私をここまで育ててくれた、一人っきりの大切なお母さんですから。中学生の時は無駄な反抗もしてしまいましたが、それも含めてこれから円満な家族になりたいと強く思っていました。やはり私は母のことが大好きだったのです。

「とりあえず適当な大学でも行って、そこでもっと勉強して、自立しなくちゃ駄目なのよ。周りの子の進路はどうなっているの?みんな大学に行くんでしょう?みんな大学に行く理由なんて適当なものなのよ?」
 母の圧を感じました。
「でも、私にはなりたいものなんてないし。それならとりあえず働いたほうがいいんじゃないかなって……。お母さんのことも心配なんだよ」
お母さんのことが心配。この言葉は母に響いてくれるんじゃないんだろうか。
「私のことは心配なんてしなくていいの。なんにも心配することはないのよ。身体も元気だし、お金も大丈夫。とにかく大学に行ってほしいの。夢なんて後から追いついてくるものじゃない」
その言葉は酷く冷徹で、とても低く感じました。母の貼りたいた笑顔は今でもすんなりと思い出せます。少しの沈黙の後、私は母に聞いてみたかったことを思わず口に出してしまいました。
「……お母さんは私が家にいることが嫌なの?」
母には就職してからもしばらくは母と一緒に住むということをあらかじめ伝えておいてはいたのです。だからこそ、ここまで大学へ行くことを勧めるということは、私に何か問題があるのではないか、と私は思ってしまったのです。
 母はその言葉を聞いた瞬間、ビクッと肩を震わせました。張り付いた笑顔は溶けきって、普段見ていた母の顔ではなくなりました。言ってしまった……。きっと言ってはいけない言葉だったのです。
「そんな訳じゃないの、ごめんなさい。あなたのことは大切だと思っているの。あなたが家にいることが嫌、ではなくて、その、あなたにはもっと勉強してほしいの。あなたには才能があるから、もっと勉強をして、いい職に就いて。それに一人暮らしをして色々な世界を見てほしいのよ。……お母さんの言っていること、分かるわよね?」
早口で喋り続ける母の言っていること。確かに分かるのは分かります。ただ、なんとなく、本当に母が言いたいことは『早く家から出ていって欲しい、世間の目も考えて、大学ぐらいまでは行ってほしい』ということだけが浮き彫りになってきました。私は母の言葉に頷きもせず、返事もできませんでした。ただ、母の本当の意図が分かってしまって、頭もぼんやりとしてしまい、喋り終わってから頭もあげようとしない母を、ひたすら見つめることしかできませんでした。

「お母さん」
母の頭は動きません。
「私、大学には行かない。高校を卒業したら働く。それで、お母さんとは一緒に暮らさないよ。だから、一人暮らし、する、よ」
 言葉が胸の上の辺りで突っかかって、上手く喋れたかは疑問です。
「お金とか、は。自分で全部なんとかするから。だから大学には行かないから」

 母の頭がやっと動きました。どこを見ているかは分からない、もう交わらない瞳をしていました。私に嫌悪感のような、恐怖感のような、違和感のある表情をしていました。

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