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ココロ ⑤

 電話が鳴り響いている。しかもこんな早朝に。まだ朝日ものぼりきっていない。だが、その電話は鳴り響いているだけだ。誰も受話器を取ろうとはしていない。
『発信音のあと伝言をどうぞ』
『もしもし……お母さん?ごめんなさい、どうしても電話に出てほしいの。私すごく困っちゃって。お願いします』
 無機質な発信音と流れるように吹き込まれる伝言。それだけが永遠とその家中に響いていた。
 その鳴り響く奥の方、部屋の隅の方で何故か震えてうずくまる女性がいる。少し白髪が目立つ、が、しかしどこにでもいるような中年女性だ。震えていること、電話から目がそらせなくなっていること、息が荒いこと、それだけが不自然である。
 
 
 何度目の伝言だろうか。同じ言葉の繰り返しの中で、その女性は蛇口を勢いよくひねり、水をそのままゴクリゴクリと飲み、雑に髪をまとめ、大きく深呼吸を2回ほどした。そのまま女性は受話器を取った。電話機のプッシュボタン音と相変わらず荒い女性の息遣いだけが響いている。カタカタカタ……。歯がガチガチと震えぶつかり合う音。まるで女性の身体は心に乗っ取られたように、嫌悪的なまでの恐怖心を受話器にぶつけていた。

 『プルルルル……プルルルル……』
 カタカタカタ……カタカタカタ……。
 『もしもし、お母さん?ごめんね、何回も留守番電話を入れちゃって……』
女性の様子が酷く不安体なこととは対象的に、電話越しの相手はとても明るくハキハキとした若い声の主だった。どうやら娘と母親という関係性のようで、ごく自然な電話のように思える。

『お母さん、あのね。すごく困ると思うけどね、私今お金が欲しいんだ』
快活な声はまだ続く。
『お金は自分でなんとかするって言ってたけどね……。実はね……。赤ちゃんができちゃってね、それで、仕事がしばらくできなくなっちゃって。だから急だけどお金が欲しいの』
 少し口ごもりながら、それでもハキハキと言葉を紡げていく相手と、それと反対に受話器をクルクルと弄りながら返事をしない女性。
『しかもね、その、相手が分からないというか……。いないんだよね。だから、その……』

「堕ろしなさい」 
女性は急にハッキリと、が芯のある声で相手の言葉を遮った。脂汗をかきながら女性は言い切る。
『で、でも』
「堕ろしなさい」
今度は冷静な声色だった。一度言葉を発せられたからだろうか?
『でも、もう産んじゃったの。もうどうしようもないの。お願いします、お金を下さい』
 が、相手も負けていなかった。というか負けるわけにはいかないという押しの強さが感じられる声だった。女性は何も言わず受話器を持っている。受話器越しにお願いします、お願いしますと何度も何度も声が聞こえる。繰り返し繰り返し。
 

 女性はゆっくりと受話器を置き、部屋に飾ってある可愛らしい少女が写った写真を飾ってある場へフラフラと歩いていった。受話器からは相変わらずお願いしますと言葉が流れているが、女性がその声を聞いていないということは知らない。

「あんたはアタシの娘なんだねぇ。そうだとは絶対思わなかったけどねぇ。アタシもさ、あんたとおんなじなんだよ。高校出て、そのまま結婚してさ、でもアタシは妊娠しにくいみたいでさぁ……」

 女性は写真に向かって喋りだす。

「妊娠できない女はいらないってさぁ、旦那もどっかいっちゃって。あんなに愛してるなんて言ってたのにさぁ……。そのときにあんたを見つけちゃったんだよねぇ……。ちっちゃいちっちゃいあんたをさぁ、アタシついつい拾っちゃってさぁ……」

自身の白髪をブチブチと抜きながら、女性は話す。

「こんなこと、あんたには言えないよねぇ…、アタシもお金なくってさぁ、すぐママに泣きついてさぁ…。妊娠できたけど相手が分かんないって嘘ついてさぁ……。そしたらママは喜んでたんだ、アタシが妊娠できなくて泣いてたの、知ってたからさぁ……。あんたのばーちゃん良い人だったよぉ……」

ぶちり、ぶちり。床に散らばる白髪はだんだん増えていく。

「でもさぁ…アタシ、あんたとはもう無理なんだぁ……。就職してからあんたはもうアタシに関わってこないって信じてたのにさぁ……。あんたの顔見なくてすむんだってすっごい嬉しかったのにさぁ……。あーあ……」

 そして女性は写真の下にある棚の引き出しから封筒を手に取り、中を確認した。万札が何枚入っているか黙々と数えていた。

「もしもし、お金振り込むから」
『えっ、ごめんなさい、お母さん、ほんとにありがと』
「10万ぐらいあるから、電話もう切っていいかな」
 女性は相手の声を最後まで聞かずにそのまま言葉を被せた。さっきまで快活だった相手の声色は大人しくなり、そのまま淡々と振込先を伝え、女性は勢いよく受話器を降ろした。
 確認のため受話器をもう一度手に取り、しっかりと電話が切れたことが分かると、ようやく女性は安心したように身体を床に預けた。

「このお金は、もしもあんたがアタシとおんなじように金に困ったときに渡しなさいってあんたのばーちゃんが貯めてたお金なんだよねぇ……。ホントに、あんたに会わせてあげたかった……なぁ……」

 女性は静かに泣いた。
 

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