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アナザーエナジー(Another Energy)展 -ナショナル/公共/うつくし・あやし-

1950年代から70年代に活動を始め、今なお挑戦を続ける、世界14か国、71歳から105歳までの女性アーティスト16名に焦点を当てた企画展。

ジェンダー・人種・民族・信条…などといった多様なアイデンティティへ目を向け、ダイバーシティを重視する画期的なキュレーションでした。

16名それぞれが強烈な独自性を有しながら、一通り見終えると、類似性・共通性もみえてきます。

(1)ナショナルなものへの憧憬

ブラジルのアンナ・ベラ・ガイゲルは、国内外の紛争や搾取の歴史を独自の視点で切り取り、コラージュ作品を発表していますが、その多くにブラジル(南アメリカ)の地図が登場します。

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また、コロンビアのベアトリス・ゴンザレスは、反政府左翼ゲリラ組織のコロンビア革命軍と政府間の内戦といった国家規模の暴力に翻弄され続けた市井の人々の悲しみ、犠牲者への弔いを表現します。

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かつての平和な祖国を愛してやまないからこそ、現代の国際政治や経済のあり方を問う。民族独自の伝統文化を現代的に再解釈する。

アート(人の為すわざ)とは、過去と現在、自己(内部)と他者(外部)の衝突により、ときに激しい葛藤をともない、自己アイデンティティ喪失への危機感と自己防衛本能を孕みながら生まれるものなのだと改めて感じさせられました。

それは「愛」とも、「執着」とも、「恐怖」ともいえる。美しいか否かではなく、ただそのような「心」が人間にあることがわかる。

natio(ラテン語で「生まれ」)にもとづく自己表現の手段共感を呼ぶ手段としてのアートの価値を感じます。

(この手のものでいえば、私はミュシャの《スラヴ叙事詩》が好き。)

(2)アートと公共的空間の形成

先にもあるように、アートは政治性を孕むことが多々あります。作品を生み出す個人そのものが何がしかの属性をもつことを踏まえれば、この世に政治性を孕まない個人は一人もおらず、常にアートは政治的であるといえなくもないかもしれません。

ちなみに、ここで補足しておくと、たまに「自然はアートだ」という人がいますが、そもそも「アート(art)」の語源はラテン語の「アルス(ars)」であり、「アルス」の語源はギリシャ語の「テクネー(techne)」なので、人間の為す「技術」のことを「アート」といいます。

ですから、「自然」は「アート」の対義語であり、「自然はアート」という図式は本来成立しません。

まあ、オスカー・ワイルドは「アートが自然を模倣する(=ミメーシス)」ではなく「自然はアートを模倣する(=アンチミメーシス)」と述べており、「自然が我々に見せるものは、我々がすでに絵画や詩で見たことのあるものだけ」、すなわち「自然界の中にあるものは、現実ではなく芸術により初めて見いだされ、我々のものの見方は芸術に影響されている」ともいいますので、巷の人が「自然はアートだ」というとき、「自然」にあらかじめ何らかの人工的に枠組みされた価値を見出しているならワイルド風の「アート>(既知の)自然」の図式が成り立つでしょう。

また、「人間もアート作品」という人もいますが、先の理由から「自然から生まれた人間」を起点としたときには、人間はアート(人工的)ではないので、言語矛盾を起こしていることになります。ただし、「人間が出産した人間」あるいは和辻哲郎的な「間柄的存在」、すなわち「人間のなかで生きる(生まれさせられる)人間」、「社会的な存在である人間」とするなら、「人間もアート作品」といえましょう。

話を戻すと、自然は政治性をもたず、アート(人の為すもの)は政治性をもつ。仮に自然から政治性を受け取るなら、それはartificial(アーティフィシャル)、何らか人間の手で加工された「自然」です。

しかし、もとより政治(police)的であるはずの私たちは、不思議なほどに政治的なことに無関心で、なるべく個人の政治的主張を消して社会に馴染むことをよしとします。

これは一つの生存戦略平和的に世界を保つ技術(art)です。逆説的に、ある種の政治性を消すことがある種の政治的存在としての自己を成立させている。

ただし、他者との埋めがたい「差」が現れ、「差別」あるいは「暴力」となって誰かの心身を痛め始めたとき、当事者たちがその政治性を発揮するときがやってきます。それまでは長いものに巻かれていたとしても、もう居心地が悪いのだ、と。

これが、陳情やデモ、署名活動、ロビイングといった社会運動へと繋がっていく(一歩踏み外すと暴力をも生み出す)わけですが、そういった力なき市民の「活動」の延長線上に「アート」が存在すること、「アート」が社会変革のメディア(媒介物、medium)として重要な役割を担っていることを今回改めて感じました。

スザンヌ・レイシーによる《玄関と通りのあいだ》は、365人の活動家が住宅街の一角に集まって60のグループに分かれ、玄関と通りのあいだの階段に座り、人種・民族・階級・ジェンダーなど様々な問題について話し合うというパフォーマンスですが、通り過ぎる約2500人の聴衆が彼女たちの会話を聞き、人種・民族・階級・ジェンダー等に関する議論の重要性を個々人が実感したとのこと。

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とりわけ日本では、同調圧力や忖度により、日常において政治性を消して周囲と調和しようとするし、アメリカのように「人種のサラダボウル」とまでは到っていないため、差異や不平等について議論することに慣れていない。

本当に議論が必要なのか、議論が新たに対立の溝を深めないかという、議論の必要性の基準をどこに置くかは難しいところですが、アメリカでさえ「アートプロジェクト」として仕掛けて初めて議論や対話の種が生まれるくらいなのだから、「メディア」たる「アート」というのは非常に重要な政治ツールであると感じました。

「メディア」たる「アート=人工物」なのだから、それは新聞でも、テレビでも、書籍でも、ありとあらゆる議論・対話のもととなる「媒介物」なら当てはまると思いますが、なかでも現代アートが優れているのは、社会の問題そのものに真面目くさって真っ向から対峙するのではなく、少し斜めの角度からアプローチすることで考えさせる余白が生まれる点言葉ではなく五感で訴えるため、多くの人に届き、印象に残りやすい点

現代アートの意義について考えさせられます。

(3)うつくしとあやしの共存

上述した事柄より、アートは必ずしも「Fine art(ファインアート)」ではない。共通感覚かのように浸透してきた西洋近代的な美へのアンチテーゼたるアートもあり、今回の展示でも「美とは何か」が問われていました。

例えば、ストッキングを用いて身体の弾性を表現したセンガ・ネングディの《パフォーマンス・ピース》。

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自らが「老女」の特殊メイクをし、老化における性差別に光を当てたスザンヌ・レイシーの《避けられない連合》。

これらはとかく「美」を求められがちな女性たちに着目することで、「美」とともに「ジェンダー」の問題にも取り組んでいるようです。

そして、私が最も面白いと思ったのが、ミリアム・カーンの作品。今回の企画展の表紙になっているあざやかで抽象的な肖像画も注目に値しますが、《人としての私》《Small family》などといった、人間の顔の表情が歪みあるいは無表情で、性器が誇張され、何を考えているかわからない不気味さが残る作品群は、鑑賞者の心をひっかきます。

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わかりやすい単純なテーマを綺麗な色で描こうとしているのではなく、人間のリアルな生々しさ、奇怪さ、恐ろしさを、あえてあざやかで幻想的な色彩で表現している。

表面的に遠目には「綺麗」でも、それを支えるものには筆舌しがたい「気味悪さ」もある。そのように感じられました。

同じく、アルピタ・シンの《私のロリポップ・シティ:双子の出現》なども一見ポップでかわいらしく思えますが、首都デリーの権力構造やヒエラルキーへの批判が込められ、大勢の男性がほぼ全身描かれているのに対し、数人しかいない女性はみな下半身が地面に埋まっています。

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綺麗/かわいい/愛しいなども含む「うつくし」と「あやし」は表裏一体であり、どこか一般的ではないいびつさ、狂気、エロティック、グロテスク…に人が惹かれうるというのも事実で、杓子定規ではかれない奥深さがある。

刺激的な企画展でした。




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