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太宰の愛人・山崎富栄

愛しの修治に会ってきました。

お気に入りの三鷹の陸橋にて

みたか観光ガイド協会の方のお話がとてもよく、とくに最後の愛人で玉川上水で心中した山崎富栄の生い立ちについて具に教えていただき、感銘を受けました。

東京婦人美髪美容学校の次女として生まれた富栄は、後継者として美容技術のみならず、英語や聖書などの教養を学びます。しかし、「経営」と「教育」は別物。「経営」は別の人に担ってもらおうと、三井物産社員と結婚しました。

その三井物産社員の奥名修一は結婚後1週間ほどで三井物産マニラ支店に単身赴任が決まってしまいます。(その後、マニラでアメリカ軍上陸を受けて現地召集され、マニラ東方の戦闘に参加し、行方不明となりました。)

夫の帰りを待つ富栄は、1945年の東京大空襲で美容学校が焼失してしまい、疎開などを経たのち、知り合いの伝手で三鷹のアメリカ進駐軍専用キャバレーの美容室で働き始めました。

そこで三鷹に住む太宰が旧制弘前高校の卒業生であることを聞きます。このとき、富栄は太宰が有名な作家であることを知りませんでしたが、亡くなった大好きな兄が旧制弘前高校の出身であり、太宰が兄と近い年齢であることから、何か兄の話を聞けるかもしれないと、知人にセッティングをお願いしました。

うどん屋で初めて会った太宰は、富栄に聖書のなかの一節でいちばん印象の残っているものは何かと聞きます。富栄は「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌はめたるが如し」と答え、太宰に褒められ、その日のうちに太宰に惚れてしまいました。

ほどなく二人は結ばれ、結核の末期にある太宰は喀血しながら富栄の家で執筆を続け、富栄はその看護に努めます。

太宰が転がり込んだ山崎富栄の下宿

近くに正妻 美知子や子どもとの家があること、行方のわからない夫が戻ってきたときのことを思うと、太宰との恋愛は深い罪の意識に苛まれるものでした。

一方の太宰は病状の悪化と、文学的な行き詰まりから、常に死を意識していました。

そして、1948年6月13日、二人は近くの玉川上水に入水します。青酸カリをあおったとかどうとか。玉鹿石という石がある場所がその目印になっているそうです。

『乞食学生』に描かれている玉川上水
玉鹿石
葬儀の仕出しをした、太宰なじみの小料理屋「千草」の跡地

P.S.
山崎富栄がお金を借りていたお蕎麦屋さんの「柏や」さんにも行ってきました。そして、まだまだみたい場所があるので、また行きたい。太宰が眠っている禅林寺には、森林太郎(森鴎外)のお墓もあり、太宰はそのことも小説のなかに書いています。生活用水である玉川上水で、小さい子を残し不義の自殺を遂げた太宰について、禅林寺の檀家は建墓を拒みますが、住職がどんな人でも死ねば許されて仏になると説得し、鴎外の墓の斜め向かいに太宰の墓をつくったそうです。


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