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『哲学思考トレーニング』④     ー推論の検討ー

5.推論の検討

さて、前回までで伊勢田哲治氏の『哲学思考トレーニング』をもとに、クリティカルシンキングの一連の流れのうち、「1.心構え」「2.議論の明確化」「3.さまざまな文脈」「4.前提の検討」についてまとめました。そして、今回は最終回の「5.推論の検討」です。

推論には、妥当な推論とそうでない推論があり、それを見分けることがポイントとなってきます。まずは推論の種類を知ったうえで、推論の際の注意点をみていきましょう。

⑴ 論理学における推論

①演繹的に妥当な推論

論理学でいう「妥当」とは、前提がすべて正しければ必ず結論も正しいような推論のことである。この「必ず」は、どんなに奔放に想像力を膨らませて考えても前提が正しくて結論が間違っている状態を想像できないというぐらいの強い意味をもつ。よって、論理学でいう厳密な意味での妥当性を「演繹的に妥当」と呼んで、本書ではゆるい妥当性と区別している

演繹的に妥当な推論とそうでない推論を見分けるのに使われるのが三段論法である。三段論法はアリストテレスがまとめたもので、「AはすべてBである」「Aの中にはBなものがある」といった前提二つの組み合わせから結論を導き出すというかたちをとる(※1)

三段論法の基本型
前提1 AはすべてBである
前提2 CはすべてAである
結果  CはすべてBである

具体例
前提1 犬はすべて哺乳類である
前提2 チワワはすべて犬である
結果  チワワはすべて哺乳類である

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演繹的に妥当な推論とは、前提が正しく結論が間違っている状態を想像できない推論である。三段論法を使って結論が間違っている状態は演繹的に妥当とはいえない

演繹的に妥当な推論の例(A)
前提1 うちの教授は猫を飼っている
前提2 猫は哺乳類である
結論  うちの教授は哺乳類を飼っている
前提が正しく結論が間違っている状態を想像できない

演繹的に妥当でない推論(B)
前提1 うちの教授は哺乳類を飼っている
前提2 猫は哺乳類である
結論  うちの教授は猫を飼っている
→前提が正しくても結論が間違っている状態を想像できる

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演繹的な妥当性はもっぱら推論に関する基準である。つまり、どんな突拍子もない前提を使っていても、推論だけみれば演繹的に妥当かもしれないということである

前提が変でも、演繹的に妥当な推論(C)
前提1 うちの教授は猫である
前提2 猫は哺乳類である
結論  うちの教授は哺乳類である
→演繹的に妥当であっても、議論全体として妥当ということにはならない

つまり、論理学は前提の妥当性については基本的には口を出さない。前提が妥当でない議論は別の角度からの検討が必要になる

②肯定式や否定式は妥当だが、前件否定の過ちや後見肯定の過ちは妥当でない推論として否定される

演繹的に妥当でない推論について、代表的な間違いは「前件否定の過ち」と「後件肯定の過ち」である

具体例
「もしある人が未成年であるならば、その人が飲み会で飲んでいるのは非アルコール飲料である」という前提が正しいとき、①~④のうち、どの推論が演繹的に妥当な推論か

①身分証明書を見てメグミさんが未成年であることを確認した。したがってメグミさんが飲んでいるのは非アルコール飲料である

②身分証明書を見てシンイチ君が未成年ではないことを確認した。したがってシンイチ君が飲んでいるのは非アルコール飲料ではない

③マスミさんが飲んでいる中身が非アルコール飲料であることを確認した。したがってマスミさんは未成年である

④リュウタロウ君が飲んでいるグラスの中身が非アルコール飲料ではないことを確認した。したがってリュウタロウ君は未成年ではない

①は肯定式、④は否定式として演繹的に妥当な推論である。しかし、②と③は妥当な推論ではない

未成年なら非アルコール飲料を飲んでいるという前提は成年の人が非アルコール飲料を飲む可能性を排除するものではないので、②も③も妥当とはいえない

②は「ある人が未成年である」、すなわち最初の前提の前半(前件)の否定から出発するので「前件否定の過ち」という。③は「その人が飲んでいるのは非アルコール飲料である」、すなわち最初の前提の後半(後件)の肯定から出発するので「後件肯定の過ち」という

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どんなに筋が通っているようにみえても、結論になって初めて出てくる名詞や動詞がある推論には、必ず何か飛躍ないしは明示されていない前提が存在する。その場合、暗黙の前提を補う必要があるか検討をする

⑵ 論理学以外の領域での推論

上述のように、演繹的に妥当な推論が情報量を増やさないことより、統計的な証拠をはじめとする、確率的な推論も妥当な推論として認めざるをえない

これは、前提が正しければ結論も正しいという「演繹的に妥当な推論」の条件は満たされないけれども、前提が正しければ結論が正しい確率が高いという若干弱い条件は満たされるということである

 気をつけるべき推論に関する事柄

①分配の過ちと結合の過ち

◎分配の過ち
グループが前提としてある性質を持つからといってそのメンバーも同じ性質を持つと想定すること

◎結合の過ち
メンバーがみなある性質を持つからといってグループも同じ性質を持つと想定すること

②権威からの議論と対人論法

◎権威からの議論
ある主張をする根拠として「だれそれさんが言ったから」といって偉い人の発言を引用すること

権威からの議論はいつも悪いわけではなく、むしろわれわれの生活に必要ですらある。しかし、その人が権威を持つとされる理由と、言っている内容の信憑性の間に相関があるのでない限り、権威からの議論は使わないほうがよい

◎対人論法(アド・ホミネム)
権威からの議論の裏返し。「こんなひどいやつが言うことだから正しいわけがない」という議論

その人の「ひどい」部分が当の主張内容の信頼性とリンクしているのであれば対人論法にも意味があるだろうが、そうでなければそうした論法は有効ではない

つまり、ある主張の善し悪しを判断するときには、主張している人を見て判断するのではなく、どういう証拠からそういう推論でその主張が導かれているか、という点を見るべき

③事例による議論

「AはBである、なぜならこの事例においてはAがBであったから」というかたちをとる議論

「AをすればBになる傾向がある」「Aをすれば必ずBになる」ということを主張したい場合には、事例による議論は基本的にあまり信用できない

逆に「AをすればBになることもある」という弱い主張をするときには事例による議論は非常に強力

④誤った二分法

複雑な状況をAかBかというかたちで単純化して、AではないからBだと結論する過ち(例:お前は味方ではないから敵だ)

相手の議論について説得されそうになったときに、「待てよ」と考え直すのに役立つ

⑤二重基準の過ち

「Aだから」という理由でBを非難しながら、同じ「Aだから」という理由のあてはまるCは非難しないという態度

結論が最初からあってその結論にたどりつくためにあとから理由をつけるような場合によく起きる

⑥自然主義的誤謬

倫理学的概念を事実で定義するという過ち

「人々がその規範を受け入れている」というのは社会的事実についての事実主張で、そのことと「その規範が正しい」ことは等値ではない

実際、例えばその規範というのが奴隷制度を容認するような規範である場合には、「人々が受け入れている規範は正しい」という主張そのものの正しさが怪しくなる

⑦自然さからの議論

「Xという行為は自然なので、やってよい」「Xという行為は不自然なので、やってはならない」といったような議論

例えば、キリスト教圏では同性愛を禁止する論拠としてこの論法が使われてきた

この「自然さからの議論」に反論するもっとも有効な手段は「他の事例にもあてはめてみる」という手法である

なお、特に⑤~⑦は、価値主張に関して気をつけるべき推論である

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さて、以上が「5.推論の検討」についてでした。

これで『哲学的思考トレーニング』の要約は終わりとなります。

実際問題、用語が難解だし、いわゆる「理論」だから現実問題には応用しづらいでしょと思いがちですが、そのような気がしてしまうのは、次のような理由があるからだと考えます。

・相手を議論の土俵にもってくることや、ルールの共有が大変である
・自分自身が論理的に考えることをどうでもいいやと面倒に思ってしまう
・相手も自分もつい感情的になってしまって建設的な議論が成立しない

私にも過去に思い当たる場面がたくさんあって、後悔、後悔、後悔…しかありません。胸を痛めながら読みましたが、同時に次こそはもう少し前に進める努力をしようという気持ちになりました。

この伊勢田哲治氏の「クリティカルシンキング」は、時間の概念が重点的に書かれているわけではありません。科学の長い歴史における言説の興亡を例に、中長期的な視点を提示していることはあるものの、即時的あるいは比較的短期間の問題解決の技法が取り上げられていることのほうが多いです。それは、一書籍に収めるという物理的な制約が働いているからかもしれないし、目の前の読者が抱えている直近の問題を解決する一助になりたいという筆者の考えの表れであるのかもしれません。

ただ人間の価値観は、時代や環境によって異なるし、個人のなかでも変わってきます。ですから、「あのとき失敗した」と後悔していても、またいつか相手と別のかたちの「正解」を見つける日がくるのだと信じて、少しずつ歩み寄れたらいいなというのが私の感想でした。

苦しい感情を少し冷静にさせてくれる、とてもよい本でした。

(おわり)

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※1:「AはBである」型の主張だけから組み立てられている「定言的三段論法」は、最終的に24パターンが妥当な推論であり、これはベン図で表現できる

しかし、三段論法で扱える主張は非常に限られているため、現代の論理学では三段論法はあまり利用価値がなくなっている。三段論法のうち、倫理的判断に関する「実践的三段論法」は役立つとは思われる

現代では、「命題論理」や「述語論理」が開発され、論理学は分析のツールとしてより強力になっている

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