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理解のある彼君問題

 あるコミックエッセイを見た。周りに合わせていたことで鬱になりダメになった私が何もしないこと&留学で本当の自分に出会いついでに理解のある彼君に出会い今は好きなことが仕事にできてキラキラしています、という内容だ。

 内容としては嫌いではないが、毎回毎回自己肯定感を高めるパートナーが出てくるのが悲しい。 

 自己肯定が低い私にとって、自分が描かれているような鬱であり何もできなくなるになったら=死でしかないからだ。

 私の自己肯定感が低い理由や原因や対策については別段どうでも良いのだが、一つ大きな問題がある。

子育てだ。

 こんな私でもわかる。自己肯定感は多分高い方が良い。高すぎるのは良くないかもしれないが、低いよりはずっと良い。

でも自己肯定感が高い子供ってどうしたら育てられるのだろうか?

自分は自己肯定感が低くなるような声掛けをしていないだろうか、ということを悩んでいる。


 例を出そう。子供が習い事でも課題でも、何かにチャレンジをしようとする。しかし飽き性で根気が続かない子供はすぐにやらなくなってしまう。3日は続けば良い方で、寝て起きたら何かにチャレンジしようとしたことすら忘れている。こういうのを叱ってしまう。

 私の叱り方はこうだ「君には2つの選択肢がある。目標を立てて努力する道と、何も努力しないで楽しいことだけをやり続ける道だ。どちらが良い?」

なんと言う優しさのない言い方だ。最悪だ。こんな言い方をしてしまう理由は自分が後者だから。そうなって欲しくはないから。

 馬を水辺に連れいくことは出来ても馬に水を飲ませることは出来ないという言葉の通り、親が出来ることは機会を与えることだけだと思う。与えられた機会を全うにして欲しい、頑張って欲しいと思ってしまう。

さて、この叱り方は自己肯定感が高まるだろうか?

目標を立てて努力する、実際に成果が出ることで自己肯定感が高まるのだろう、と私は思っている。努力をしないで何も変化がないままで自己肯定感が高まるわけはない、と思っている。

そこで件のコミックエッセイだ。彼女は何もしないこと、自分の好きなことを探すことで自己肯定感を高め、そして理解のある彼君を見つけて幸せになっている。

もしそのルートが正解のルートならば、私は「何も努力しないで楽しいことだけをやっている子供」を肯定し、褒めるのが良いのだろうか?

そもそも正解とはなんだろうか。生きる意味などないと言うのに。現世はただの通過点でしかないのならば楽しんだほうが得ではないだろうか。


親が子を叱るのはエゴだ。幸せになって欲しいというわがままな気持ちを押し付けているに過ぎない。心理学のキーワードとしてドライバーというものがある。「ミニスクリプトと5つのドライバー」という論文で紹介されているので興味がある人は読んで欲しい。

簡単に言うと幼少期に親から刷り込まれその後の人生の行動パターンを決めてしまう脳内が発するメッセージである。

・完璧であれ
・がっかりさせるな
・怠けるな
・急げ
・強くあれ

という5つのメッセージがある。もちろんこれらはポジティブな面もあるのだけど「完璧であれ => 完璧でないなら意味が無い」といった逆転現象を生みがちなのだ。

僕自身は完全にこれなのだが、人間のスペックが低いので脳内のこれらのメッセージがあってやっとこさ人間をやれているような側面がある。


つまりの所私自身がこれらのメッセージに縛られてしまっていることで適切な叱り方が出来ていない、という所に問題が集約されるのだろう。

完璧であれ、努力しろと言う前に、完璧ではなくても、怠けてても、のんびりしてても、弱くてもそれでも君を愛しているよ、まずはそう伝えるべきだ。

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