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「時間の無駄」理論と人生のオーディション。

「愚痴しか言わない人とは付き合うな」とか、「嫌いな人に何を言われても気にするな」とか、その類の対人関係のトラブルの話になるといつも決まって付いてくる「時間の無駄」理論。言っていることはわかるのだけれど、一体どのくらいの人がその理論を本気で掲げているのかを考えるとちょっとぞっとする。

別に上に挙げたような考えに反対するわけではない。むしろ私は関わる人間に対して非常にシビアな判断を下すタイプだと思う。大好きな人、ずっと関わっておきたい人たちの存在は絶対に手放さないし、自然消滅なんて絶対にさせない。その一方で、なんの感情も持たない人や蔑ろにされていると感じる人は自分の世界から消してしまえばいい。(もちろん「自分の世界から消す」というのはその人の存在を意識の外に置くことであり、最低限のマナーは遵守したうえで、その人の世界へ深入りはしないという意味だ。)誰かが「好きの反対は嫌いじゃなくて無関心だよ。」なんて言っていたが、まさにその通りなのである。

私がこうする理由は、たぶん、選ぶことが好きだからだと思う。人生の最終地点は80歳、中間地点は40歳というイメージなのだが、私はそれまでに好きなものを選んで、集めて、大切にしておかなければならない。部屋には、幼稚園の頃から抱いて寝ていたぬいぐるみ、10代の私を作り上げた様々な本や映画、20代の時に貰った好きな人からのプレゼント、30代の時に母からもらった嫁入り道具、40代の時に娘からもらった手紙やアクセサリー、50代の時に手に入れた海外のお気に入りのインテリア、ずっとそばにいてくれた私の愛する人たち…そんな大好きな人やものに囲まれて私は生きたいし、死んでいきたい。そこに一点の曇りもあってはならない。言うなれば、私は物心ついた時からあらゆる人やものをオーディションという名のふるいにかけているのだ。その意味で将来的に自分の世界にいない人に対しては関心の対象ではないという、ただそれだけのことなのである。

しかし、世の中の人は実はそうではないらしい。彼らにとってのキーワードは「時間」なのである。自分に悪影響を与える人と関わっているのは時間の無駄だ、と。

私は言いたい。

「そんなに忙しいのかよ!あなたは今まで1分1秒も無駄にしたことがないんですか!」と。

分かっているのだ。そんなことくらい。自分に悪影響を与える人と関わっていても生産性が無いし、何より自分にとってメリットが無いから時間の無駄だと言いたい気持ちは分かる。ただ、何かを引き合いに出して「時間の無駄」理論を説く人たちが実際に時間を有効に使っているのをみたことがないだけなのだ。寝る間も惜しんでマルチタスクをこなしているわけでもなく、世界を動かしているわけでもない、無駄だという割に時間を自身の成長のためにも誰かのためにも使うわけでもない人たちが、もはや人間関係だけではない、何か不都合なことがあるたびに使う言い訳。実際に使っている人に出会ったり、画面越しのその人をイメージする度、「どれだけ有意義な時間の使い方をしているのかしら。」と皮肉られずにはいられないのだ。

人生なんて無駄な時間がほとんど、むしろその無駄な時間をどう過ごすかで人生の質や重さ、色が決まるというのに。

少なくとも今はそう思っている。

もしかしたら、何年後、何十年後かに「時間の無駄」理論を 実績も伴わないまま馬鹿の一つ覚えみたいに振り回している私がいるかもしれない。

が、そのときはそのとき。
この話はまだ人生の中間地点のその半分にも満たない小娘が言っていたこととして聞き流してほしい。

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