執着とこだわり
今日は会社の事務所内の倉庫整理が朝からあり、皆でダンボールを運びに外に出ると、ふっと年末の香りがして驚いた。すっかり空気が冬になっている。
そして同じく本日、このアカウントで繰り返し紹介している陽子さんのインスタで執着とこだわりという文字を見かけた。電車に乗りながらこれについて考えていたので、更新しなきゃという焦りのもと、つらつら書いてみようと思います。
↓紹介
と、ここまで書いて力尽きた模様。23日になってしまいましたが、今日こそは祝日なので書きます。
執着とこだわり。このふたつはとてもよく似ていると思う。というか辞書引けば大体同じ意味なんじゃないかとさえ思う。それでも私がまず一番に思いつく違いはやっぱり、捨てられるかどうか。
執着は文字通り固執して逃れられない、離したくない、という、~したくないが続くどうしようもなさ。こだわりは、いつかなくなると分かっていても尚大切にしたいという、その人だけの強い気持ちの表れ。私の中ではこんな印象。極端に言えばね。
手放せなくなってしまったら、自ずと世界は狭まるし本当に必要な時に必要なものを掴めなくなってしまうかもしれない。好きを大切にするということと好きなものしか見ないことはやっぱり違うと思う。
ただ、こだわりがあっという間に執着になってしまうってことも多いのだろうな。たとえその逆は少なくても。表裏一体とかよく聞くけれど、正反対であるようで実は一番近い、両極端と思っていたら実は隣り合わせだった、とか、そんなことがこの世には本当に多いですね。
じゃあどうやってその境目を見極め執着にならずに済むのか。これがねえ、難しいし分からんのよね。私は今、執着していることはないだろうと言えるけれど、かつてはそれに近いものがあったような気がする。例えば、記憶への執着。本を読んだその一文に涙するほどの感銘を受けたこと、心に残った映画やライブ、或いは親しい人との愉快な時間。全部を忘れたくなくてもがいていた時期があった。でも、もしそれらを忘れる時間があったとしても、絶対に私に刻み込まれてはいてなかったことにはならないし、それを自分が信じてあげなくて誰が信じるんだとも思え、気付いたらどうでもよくなっていた。
必要なのは、時間と冷静さと顔を上げて周りを見渡せるくらいの余裕なのかもしれない。そして他人の力を借りること。
少し前まで、何も持っていけないのだからなんでもどうでもいいじゃんのマインドだったのが、最近は持っていけないからこそ今だけは好きなものを選ぼうと考えるようになった。それでも、大好きなものに囲まれた私の家がもし、何かが起こって全て消え去ったとしても、まあいっかで済まされる今の状態でいたいと、そこは変わらずに思う。
そういえば、私は椎名林檎が好きなのですが、彼女が春に行ったツアー"椎名林檎と彼奴等と知る諸行無常"から私が感じたひとつのテーマは依存・執着からの脱却だった。酒に溺れ他人に依存しどんどん悲しみと孤独に満ちた状態に落ちていき、そこから一転ザバッと清らかで温かい愛のもとに生き返る。一度死んでまた繰り返すのかと思いきや、見事に抜け出したその姿は、まだまだやってやろうじゃんと大勢に呼びかけているようだった。
抜け出すことだって出来るし、なんなら引っ張りあげてもらうことだって何度だって可能だ、そう思わせられる人の力ってものは本当に凄い。
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