ホントはどっち?
長女として産まれたけれど、長男みたいに育てられた。
しっかり者であることや成績がよいこと、が私にとっては、大事なことだった。
愛らしいこと、可愛いこと、は私には求められなかった。
逆に私がおしゃれしようとすると、止められた。
それはそれで生きづらいことではあったけれど、でも、それを貫けるのであれば、それで構わなかったのだと思う。
でも、そうではなかった。
法事などで親戚が集まると、年下の可愛いいとこのことを大人たちは、こぞって褒めた。
父も母も、ニコニコしながら褒めていた。
◯◯ちゃんは可愛いから将来が楽しみだ。
◯◯ちゃんは芸能人の誰々に似てる。
親戚のおじさんもおばさんも、私には、Risaちゃんはお勉強できるんだってね、ってついでみたいに言うくらいのもので、その場では、私の成績のよさも、作文コンクールでの入賞も、陸上大会での活躍も、何ひとつ価値のないことのように思われた。
女の子はそんなに勉強ばっかりしたってしょうがない、なんて酒がまわると言うおじさんさえいた。
世の中って、結局そんなものだ、女性は綺麗で、ちやほやされてナンボなのだ、ということを、私は大学に進学してから気付くことに、なる。
私の通っていた大学のそばには別の女子大があって、そちらに通っている子のほうが、合コンの誘いも多かったし、彼女にするなら女子大の子、と言っている同級生の男子も、いた。
せっかく勉強頑張って合格したのに、何だかなーって感じだよね、って女友達とは話していた。
何年か前、東大の入学式で、上野千鶴子が祝辞を述べて、その中で、男子は東大生であることを自慢するけれど、逆に女子は東大生であることを隠す。それは他大学の男子に引かれるから、なんて話が出てきて、それは私にはすごく頷ける話だった。
大学生になると今度は、彼氏はいないのかと、就職したら、いつ結婚するのかと、親は今度は、そうなった。
親戚の◯◯ちゃんはもう結婚して子供もいるのに、と。
成績がよかっただけの私は、仕事はできなかった。
そして恋愛もうまくいかなかった。
私はどんどんどんどん生きづらくなっていった。
長男のように生きること、を求められた一方で、ある程度の年齢になったら、女性らしく生きること、結婚なり出産なりそういう分かりやすい幸せを求められる。
そのダブルスタンダードこそ、私を混乱させ、生きづらくしていたのだろう、と、今の私は、思う。
女性であることを封印するかのように、男みたいに育てられてきて、その挙げ句、大人になって、はい、女性らしく生きてみて、女性であることを楽しんで、って言われても、分かるわけがなかった。
女性らしく生きることヘの罪悪感みたいなものとか、そういうものも含めて。
そんな私に、天使さまたちが伝えてくれたこと。
『もっともっと美しくなっていっていいのよ』
『口紅塗ったくったりそういうのキライかもしれないけど、あんた案外似合うのよ』
『今のあんたなら何着たって似合うわ』
女の子として産まれたんだよ。パパも喜んでくれたんだよ。可愛い可愛いって思ってたけど、でも自分がそうだったみたいに、しっかり育てなくちゃ、家のために、みたいに思っちゃったんだよ。
ただそれだけだったんだから、もういいんだよ、って、そう自分で自分に言ってあげる。
小さい頃から、もっとおしゃれしてみたかったよね、って自分に言ってあげる。
何着ても似合う、って天使さまが言ってくれるくらいなんだから、何でも着てみよっか。
女性であることを閉じていたからこそ、女性であることを開花させることの嬉しさや尊さが、分かる。
そんなふうに花開いた女性が、輝かないはずが、ない。
生きてきた全てを糧にして、今度は、自分自身のために、女性として生きて、輝けば、いいだけなのかもしれない。
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