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作品を産み出すことについて〜作品は子供?

どんな創造にせよ、無から有を産み出すのはすごいことだと思っている。

世の中を、どんなふうに切り取るか、どんなふうにとらえるか、そしてそれをどんなふうに表現するか。
それは、その人の持つ感性や価値観だけでなく、その人がそれまで生きてきた全て、その人の生き様さえも写し出されたものである気がする。

そんな、全人格をかけて産み出されたものだからこそ、人さまが創ったものには敬意をはらう必要がある。

盗用するなんてもってのほか。
軽い気持ちだとしても、絶対によくないこと。

でも、そういう、作り手へのリスペクトとはまた別の論点があると思う。

それは、創り上げて、世に出した以上、それが、どのように解釈されるか、どのような評価を受けるか、それはもう、世間に委ねるしかない、作り手の手を離れたところの問題だということ。

いいえ、私はそういう意図をもってこれを創り上げたのではありません、ですからそのような解釈はしないでください、と言ったところで、難しいんじゃないかな。

というか、そういう、例えば世間の無責任な批評や、浅い理解や、本意ではない捉えられ方とか、そんな諸々をも受け止めていくのがプロなんじゃないかなって私はずっと思ってきた。

よく、作品は自分の分身、子供、なんて言い方もされる。
産みの苦しみ、なんて言葉通り、一つの作品を作り出すのには膨大なパワーがいる。

産み出したことへのリスペクト、それは、絶対に必要だ。

でも、産み落とした以上、世に出した以上、あとはもう、自分とは別人格にもなるのだ。

子供の人生は子供のもの。

自分自身ではない。

作品が受ける評価と自分自身の価値が同一でないのは、子供が受ける評価と自分自身の価値が同一でないのとおんなじだ。

うちの子供をこう見てほしい、こう評価してほしい、こんなふうに理解してほしい、と言い続けるのは親のエゴな気がする。

子供は自分のモノではない。

手を離れたら、あとはただ見守るしかない。


「自分の作品を可愛がり過ぎない」

私は、この言葉は好きで、自分自身に言い聞かせたりもする。

子供は、自立させてゆくことが大事。

自立した大人が、次の世代を担ってゆく、新しい世界をつくってゆくから。

そうであるなら、「自分の」子供、っていう意識は強すぎないほうがいいんじゃないかな、とも思う。

天からお預かりして、そうして大人にして、新しい世界を創り上げる構成員にする、ただそれだけのことかもしれない。


このnoteという場に言葉を書く時、たまに、あれ、書かされてる、って思う瞬間がある。

天が私の体を使って、何か届けたいメッセージがある。

全ての創造は、そういう側面もあるのかもしれない。




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